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コラム 山田ハルの「なんだかなあ雑記」

CD-ROMをつくりながら、「コラッ!」とつづった時事放談や身辺雑記!
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2001年ロシアの旅(28)
Date: 2002-04-09 (Tue)

レーニンは生きていた?

モスクワ2日目。
ワタシは、大学時代の同級生とレーニン廟前で、朝10時に待ち合わせをしました。

しかし、レーニン廟の前で待ち合わせをすることなど、
不可能なことだったのです。

レーニン廟は、月・金曜日以外の午前中、参観することができます。
そして参観時間中、赤の広場は封鎖され、
厳重に管理された参観者のみが、赤の広場から廟へ入ることができるのです。
その日、ワタシは赤の広場を遠巻きにしている観光客の群を眺め、
うかつだった…とため息をつきました。

M君と会うことは、さっさとあきらめ、赤の広場周辺をぶらぶらと散歩しました。
とくに用事はなかったので、めくらめっぽう歩いていたら、やっぱり道に迷いました。
疲れたので、何か飲みたいなあ…とカフェを物色していたら。

あそこ。外でビール飲んでるあの人。
誰かに似ている。
アタシのすっごくよく知ってる人。
誰だっけなあ…、とりあえず写真をとっておこう、と思いました。

でも、あの人は絶対に有名人。
あとでSPにフィルム渡せって羽交い締めにされたらイヤだな、と思ったので、
一応、写真撮ってもいいですか?
と聞きました。
するとその人は早口で何か言いました。
わかりません。
要領を得ないワタシを見て、その人は指をこすり、ポケットから10ルーブル紙幣を見せました。

10ルーブル要求する有名人?たいしたことないなあ…
その人は、帽子をかぶり、道ばたでポーズをとりました。
そうです。やっと思い出しました。

レーニンでした。

レーニンのそっくりさんだったのでした。
普段は赤の広場や酒場で営業されているそうです。
どうやら、その時は休憩中のようでした。

レーニン。ウラジミール=イリイッチ。
1917年ロシア革命の立て役者。
アタシのなんちゃってヒーローだった人。


ロシアを離れる最終日、朝からだらだらとしていました。
この日を逃すと、もしかしたら永遠にレーニンとまみえることはないかもしれない。
でも、よくよく考えると、死体を見るなんて…
というためらいもあったことは確か。

来る前に『レーニンをミイラにした男』(文春文庫)という本を読みました。
スターリンが自分の権力を誇示するために、
レーニンの奥さんの反対にもかかわらず、
化学者に遺体の保存方法を研究させて、
その研究者の方々も、政争の渦に巻き込まれてゆく…
という話なのですが、

「そうか、やっぱりレーニン廟のレーニンはロウ人形じゃなかったんだ」
と、素朴に思いました。

で、見に行きました。
赤の広場の入り口には、とんでもなく長い行列が出来ています。
ワタシは30分ほど待ちました。
広場入り口には、警備員が荷物チェックをして、
カメラを持っている人をはじきだしています。
(うっかり、の人も、確信犯も見つけてしまうみたいです。
 並び直す時間と体力と気力のない人は、カメラは預けて列にならびましょう)

警備員に促され、レーニン廟までちょっと緊張しながら歩きます。
途中、ロシア革命に貢献した人のお墓などがあり、
神妙な顔で視線をふりまきましたが、なんだかよくわかりませんでした。

大理石造りの廟の前に、警備員が仁王立ちです。
一歩踏み入れると、あまりの暗さに、目の中がちらちらしました。
角かどに、警備の人が立っています。
冗談を言いたいけど、言えない雰囲気。
この人たちも、ロウ人形じゃないの…と横目で通り過ぎようとした拍子に、
段差で足がカクンとしました。

と、むこうにぼんやりとしたあかり。
赤みがかかった光が、天蓋のあるベットにともっています。
ここにおわすのは、レーニン。

レーニンが亡くなったのは、1924年です。
目の前に居る人は、月並みですが
「まるで眠っているよう」です。
いやいや、ワタシはそんなに冷静ではありませんでした。

真っ暗な中に、人が浮かんでるようだな、浮かんでるようだな、
ああ、浮かんでる浮かんでる…
ああ、しっかりみなきゃ、みなきゃって、
そんなことを念じながら、
後からくる人に押され、出口へと向かったんでした。

明るいオヒサマの下に出たワタシは、
ヘナヘナと赤の広場を後にし、
ぼんやりと街路を歩き回り、
へたへたとカフェの椅子に座り込んで、
「あんなもんが残っているこの国は、やっぱりようわからん」と、
コーヒーをすすったのでした。

で、よくわからないけど、ロシアはなんだか面白いところでした。
15年後の2017年はロシア革命100周年です。
ワタシが一体いくつになっているのか、考えたくもないけれど、
そのときまた来たいな、とうっとりと思いました。

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という訳で、のんべんだらりと続いた「2001年ロシアの旅」はこれにて終了です。
ありがとうございました。



2001年ロシアの旅(27)
Date: 2002-01-15 (Tue)

モスクワの中のニッポン

モスクワの中心部を歩いていた午後、お腹がすきました。
ちょっと休んで何か食べたいな、と思ってカフェをさがしました。
道ばたにテーブルが出ているオープンエア・カフェがあったので入ってみました。
看板に「СУШИ-БАР」と書いてあります。
他には、日の丸と「鮨」の漢字。
そうです。そこは「スシ・バー」だったのでした。

異国で寿司。高いに決まっています。
というか、何もロシアくんだりまで来て、寿司を食べなくてもよいでしょう。
ごもっともです。
でもワタシは、きづいた時には腰を落ち着けてタバコを吸いはじめてしまったのでした。

金髪のかわいらしいお姉ちゃんがメニューを持ってきました。
ワタシは「日本料理屋だったら日本語が通じるだろう」と、
にわかオヤジと化し、ねえちゃん、おしぼりちょうだいと、話しかけました。
でもあっさり、わかりません、と返されてしまいました。

メニューには、おなじみの握りや軍艦、巻き物が並んでいます。
オープンエアといいつつ、テーブルにパラソルがある程度の構えなので、
まわる寿司くらいの値段だろう…と思っていたら、2カンで120ルーブルからとちょっと高い。
ちなみにウニは220ルーブルです。
(当時1ドルが125円。1ドルが29ルーブル。計算してみてください)
ちょっとおよび腰になっていたら、おねえちゃんがセットを指差し、
「サービス、サービス、ハーフプライス」
と言うではありませんか。
セットは1300ルーブル。ハーフプライスだと650ルーブル。
それに加えて、お味噌汁80ルーブルを頼みました。

お箸がきました。
それには東洋人の絵がかかれていました。
細いつり目でちょびひげ、笠をかぶり、幅広い袖の衣服を着ています。
どうみても我々のイメージでは中国人の絵です。
「コノ絵ハ、キターイ(中国人)ネ」
とねえちゃんに教えてあげましたが、わかりません、と返されてしまいました。

味噌汁がきました。
我々でいうところの「レンゲ」がついてきました。
むこうのテーブルのロシア人はお行儀よく、器用にレンゲで味噌汁を食していましたが、
ワタシは、正しくしゃきーんと箸を持って、器用にネギをよけながら味噌汁を食しました。

セットの寿司はイクラ、赤身、ウニ、白身、玉子、サーモンなどなど10カンで
(しかも正しいガリつき)、味はなかなかのものでした。
食べ終わると、ねえちゃんが「デザートは?」とメニューを持って聞きにきました。
むこうのテーブルのロシア人は、食後にでっかいパフェやケーキを頼んでいます。
ワタシは気分が悪くなりました。
ここで正しい日本人が頼むものとは…
あがりください、と言っても通じなかったので、「グリーンティ」を頼みました。
このグリーンティがいくらだったか(有料!)、今となってはどうでも良いことでございます。

お茶をすすりながら店内を眺めると、ずいぶんとロシア人が来ています。
それも、ニュー・リッチ(成り金)ぽい人やキャリアウーマン、
家族連れまで。
どうだ、うまかろ、たかかろ、すごかろニッポンの料理は、
と、にわか愛国者になったのはいうまでもありません。
(しかし彼らが本当に日本の料理と認識しているかはギモンです)

街を歩くとけっこう日の丸を掲げた料理屋さんがあるものです。
「ЯАКИТОЛИ」
「ФУДЗИ-САН」
読めますでしょうか。
答えは、「やきとり」「ふじさん」です。(トクイになってどうする)

これもどうでもいい話ですが、「ФУДЗИ-САН」の店に
「ラーメン」「酒」となじみぶかい文字が掲げられているのにつられ、写真を撮ろうとしました。
すると、目の前で駐車している車の親父が窓を開けて、タバコをボンネットにばんと置きました。
にらんでいます。
カメラをおろしました。
タバコをしまいます。
さっとカメラを構えました。
再び、すごい音をたててタバコをボンネットに置きました。
手が痛そうでした。
すばやくシャッターを切り、「あんたをとってるんじゃねーよ」と言って逃げました。
振りかえると、そこはロシア中央銀行の前でした。
私服の人だったのかもしれません。

街を歩くと、いわゆる多国籍企業の「ニベア」や「ネスカフェ」の看板が目につきます。
その中で、ソニーやホンダではなく、エアコンの「ダイキン」の看板を見つけたときは
なぜだかとても嬉しかったです。
エアコンの室外機をみつけるのが稀だったので、エアコン、これから伸びるかもしれません。
(ロシアだって夏は暑いよ、それなりに)

ほかに目についたのが、「КАРАОКЕ」カラオケです。
お店だけでなく、ポ−タブルカラオケのメーカーが提供する、カラオケ番組を
毎朝テレビでやっているのには驚きました。
(プロの歌手がイントロを聞いて歌うのです。番組の終わりには観覧者も参加して歌ってました)

そうは言っても、モスクワから日本は、やはり遠いようです。
空港や町中にある両替所では、わがジャパニーズ・イエンは通じませんでした。
(円→ドル→ルーブルの計算をしないといけないので、物価がなかなかつかめませんでした)
10年前、極東のハバロフスクの空港では、円からルーブルの両替がダイレクトにできたのですが。
ちなみに強いのはドルとマルクでした。

さて、最終日。
朝テレビを見ていたら、日本のニュースをやっていました。
台風のニュースです。
大洪水になっているようです。
しかも画面上にはトウキョウと書かれています。
ワタシはあわてて、会社に電話をしました。
空港が閉鎖でもしてたらどうしよう、と思ったからです。
画面の中では、車や民家が水没しています。

電話のむこうでは、上司がのんびりと、
「ああ、すごい雨だよう。びしょびしょだよう」
と言いました。
車が水没してますけど、空港とか大丈夫ですか?と聞いたら、
「うーん、こっちはそこまで降ってないよう。和歌山とかはすごいみたいだけど」
と言いました。
そう言われて画面をよく見たら、どうも田園風景のようです。
「ロシア人はさあ、和歌山も東京も区別つかないんじゃない?広い国の人だから」

そうかもしれない、と思いました(でもやっぱりそれはどうかな)。

*****あと1回か2回で終わります*****



2001年ロシアの旅(26)
Date: 2002-01-07 (Mon)

「ノ−ブエ」トレチャコフ美術館

ホテルのフロントで小さなパンフレットを見つけました。
きれいな印刷でロシアの20世紀美術を紹介しています。
その美術館はトレチャコフ美術館。ロシアの大富豪のコレクションが展示された、
サンクトペテルブルグのエルミタージュと双へきをなすモスクワの美術館です。

と思ったら、それはトレチャコフの新館でした。

パンフレットを手に地下鉄の駅を降りると、そこは屋台が連なる雑踏でした。
すみません、と人を止め、
「グジェ ノ−ブエ トレチャコフ?(トレチャコフ新館はどこですか)」
と聞きました。
トレチャコフだったら違う駅よ、トレチャコフっていう駅よ、
と言って女の人は足早に去っていきます。
トレチャコフ駅にあるのは、有名な本館、ワタシが行きたいのは新館なのに…
そう思って、次々と人に尋ねてまわりました。
すると人々は、すみませんと話し掛けただけで、知らない、と避けはじめました。
どうやらパンフレット片手に何かを要求するアヤシイ人に思われているようです。

仕方ないので、パンフレットを仕舞い、身なりの良いおじさんに尋ねました。
でも、おじさんも、そこだったら別の駅だよ歩いていくのは遠すぎるよ、
と言いました。
だーかーら、ノーブエ、新しい方なんですってばあ、と泣きそうになりました。
おじさんは、だーかーら、新しい方に行く駅は、ここの隣の駅だよ、
と駅の看板を指し示して言いました。
なるほど、ワタシは駅を間違って降りていたのでした。

そうやって迷いながらたどりついたトレチャコフ新館は、ゴ−リキ−パ−クの向かいにあります。
ところが、地図が示している場所にあるのは、
黄色いリプトンの看板が立つ、四角い流通倉庫のような建物です。
とても美術館には見えません。
むむっと唸って立ち尽くしていたら、向こうから懐かしい日本人の方がやってきて、
確かに美術館です、僕もさっき見てきたから間違いありません、
と力強く断言してくれました。
ああ、ノーブエ・トレチャコーフ…
本館ははね、モザイク状のレンガとタイルが美しい、夢のような建物なのにね…

というふうに時間を費やしていたので、閉館まで1時間半しかありませんでした。
さすが国立の美術館だけあって、ミュージアムショップもちゃんとあります。
お買い物の時間も確保しなければなりません。
でも、ワタシの勘では、閉館までねばっていたら、ショップはきっと閉まってしまう。
トイレに行くついでに、画集と図録とカードを購入し、
荷物を抱えながらダッシュで作品を見てまわりました。

外観は四角い流通倉庫、と悪口をいいましたが、内部はゆったりとスペースがあり、
余分な飾りがない分、白い壁面は大きなカンバスみたいで絵が引き立ちます。
高い天井には採光できる窓があります。
そしてところどころにある壁面の大きな窓からは川が見えました。
次にどの部屋に行くか迷いましたが、正しい導線に沿ってあるくと、
1900年代の美術の流れがわかりやすく概観でき、とても機能的な美術館だと思いました。

子供の絵のような無邪気な線で描かれた、ピロスマニなどのプリミティブな絵画、
幾何学模様で都市の景観を表した、レンツロフ、
そしてワタシの大好きな、リシツキーのグラフィック…
と好きなコ−ナ−で足留めをくい、時間は瞬く間に過ぎていきます。

1930年代〜1950年代のコーナーに入ると、絵が妙に写実的になり、
スターリンの堂々とした絵姿が目に着くようになりました。
筋肉美を誇示する女性や働く人の姿も。
どうもこの時代の絵画は「リアルであること」が求められていたようですが、
それはワタシの好みではありません。

鼻白んだ感じで、ふーんと流して歩いていたら、
1枚の絵から離れられなくなりました。

乳房が3つある裸の女性。
ガスマスクをつけた引き手と、ガスマスクをつけた馬。
手足が異常に大きい、腰のあたりがひっついた双児の女の子。
そんな奇妙な人の群れが、荒野のような、キャンプのような場所で、
カメラ目線のスナップのような感じで描かれています。
荒野はなだらかにうねって、七色の背景色がくりかえしくりかえし、
地の果てまで続いています。

この世界の終わりを感じさせるような、それでいて七色の背景が妙にあかるい、
不思議な絵を同年代に描かれた作品とくらべつつ、
何度も何度も行き来しました。

題名は「フェノーメン」(希有な現象、という意味らしい)
1936年〜38年に描かれています。
こんな絵がスターリン体制下に許されたのか…
と不思議で不思議でしょうがなく、
レーニンやスターリンの肖像画と見比べては戻り、ため息をついていました。

すると、そんなワタシに目をとめた美術館のおばちゃんが、
一枚のプレートを指し示しました。
画家の名は、パベル=チェリッチュ(知らない画家です)、
亡命した人なんだそうです。
そうだよね、亡命しなきゃ描けないよね…と腑に落ちました。
ニューヨークのフリークショーを見て触発され、この作品を描いたそうです。

あらためて見入っていたら、スターリンの肖像画のコーナーの方角から、
ざっざっざっざと、無気味な足音が聞こえてきました。
おびえたワタシが、ここの係のおばちゃんを振り返ると、
彼女は時計を指差しました。
時間です。
各コーナーに配置されている館の女性たち
(ロシアの博物館は作品と観客を監視(?)する係員…ほとんどが年輩の女性…が異常に多い)
が、大挙して引き上げる足音だったのですが、
ワタシとしては、スターリン体制下にタイムトリップしたような錯覚をおぼえてしまいました。

美術館を出ると、日が傾いていて、ゴーリキーパークの観覧車やエントランスの風船が、
シルエットを描いていました。
ワタシの前を、子供を抱いたお母さんが歩いて行きました。
肩ごしに子供がワタシをじっと見つめていました。
それはとても穏やかな風景で、最後に見た絵の印象がオーバーラップし、余韻となって残りました。




2001年ロシアの旅(25)
Date: 2001-12-26 (Wed)

マヤコフスキー博物館

旧KGBのあったルビヤンスカ広場に、ロシア・アヴァンギャルドの詩人、
マヤコフスキーの博物館があります。
彼がロシア革命後、モスクワに移った1919年から、自殺するまでの1930年まで
住んでいた家が、現在博物館になっています。

ワタシは、彼のことをよく知りませんでした。
彼とともにグラフィックの仕事をしていたエル・リシツキーの作品が好きで、
ここに行けば当時のグラフィックがたくさん見られるかな…と、
ちょっと脇道にそれた興味で赴いたのです。

ロシア・アヴァンギャルドという名称は、後世に付けられたもので、
はじまりと終わりの年代、そして歴史的意義については諸説あります。
ワタシの理解では、帝政ロシアからソ連への移行期間に、
自分たちが新しい時代をつくるんだ、という気負いをもった芸術家たちが、
絵画、演劇、建築、映画、音楽などの分野で、古い概念を打ち破る、
実験的な作品をつくり民衆にアピールした、
ひとつの青春群像のようなものだったのでは…と思っています。
そしてマヤコフスキーという人は、色んな意味で目立っていた人らしいです。

さて博物館です。
ルビヤンスカ広場というのは、赤の広場にほど近い、いわばモスクワの一等地です。
人通りも車の往来も激しい、その一角。
路上で、若者たちが詩集や本を売り、芝居のチケットを売っていました。
もしかして…とビルの谷間に入ってゆくと。
いい感じに古びたビルの入り口が、朱色の鉄骨で枠取りされ、
クールにデザインされた「 МАЯКОВСКОГО」(マヤコフスキーの)という
サインが掲げられていました。

入った所にチケット売り場と、本屋がありました。
さっと視線を走らせると、画集、ポスター、カード…とのどから手がでそうなものが
たくさんディスプレイされています。
腕に大きな入れ墨をし、鼻にピアス、スキンヘッドの兄さんからチケットを買いがてら、
図録はある?無い、写真とってもいい?1カットにつき8ドルだよ(高い!嘘ついてない?)
というやり取りをかわし、
購買欲でふくれあがったワタシは、(あとでくるからまってろよ)と後ろ髪をひかれる
思いで階下に降りました。

ワタシは、モスクワに来たらぜったいここに来たい!と強く思っていたので、
この博物館を紹介するホームページを律儀にも印刷して手元に持っていました。
以下は、そのホームページの記載内容を参考にしています。

地下に降りると、大きな鏡とその前にゆがんだ椅子が並んでいました。
マヤコフスキー宅に訪れた人々は、まずここにすわって己の姿を写し、自省した…
そうです。
クロークのおばちゃんは、妙に愛想の良い人で、荷物を受け取りながら、
どこから来た?日本、そうそんな遠くからようこそ、まあ、まずはそこの椅子に座ってみなさい…
というような意味のことを言って、ワタシに椅子を勧めます。
素直に従って椅子に座るワタシをおばちゃんは、じっと見つめています。
(なんだかよくわからんなあ、こまったなあ)
と、居心地悪く、ただそこに座りました。

しばらくして、おばちゃんが手招きをして、さあ、この階段をあがってゆきなさい、と
手ぶりで示しました。
別れ際に、にやっと笑った…ように感じたのは、ワタシの心象風景かもしれません。

この博物館の展示は、非常に抽象的でデザインに凝っています。
どうやら詩人の幻想と詩のメタファーを空間として表現しているらしいのです。
たとえば…
天井から壁にかけて古い写真が貼り付けられています。
破れ下がっているように見えても、それがデザインなのです。
よくよく見ると、革命当時の赤の広場や、戦車だったりします。
でもそういったことの説明は一切なし。
勝手に感じなさい、ということらしいのでした。

机と椅子があります。マヤコフスキーの写真が座っています。
大きな時計があります。
そしてそのまわりや時計の中に。
イラスト、デッサン、本、葉書、手紙、写真、新聞…などなどが
散乱しています。
これが、彼の創造の糧なのでしょうか。

ロシア正教の聖母像が額縁に入っています。
聖母の顔のあたりのガラスが、大きく割れています。
宗教という呪縛の打破、なのでしょうか。

ロシア皇帝らしい人の油絵があります。
その油絵は、展示のバックヤードに逆さまになって放置されていました。
あまりにベタなので力が抜けました。

一つのフロアに階段が二つあったりして、順路にも迷います。
迷っているワタシをロシア人の老婆がじっと見つめています。
老婆は黙って近寄ってきて、方向を指し示します。

鉄のオブジェを横目でみながら、吹き抜けになったらせん階段をのぼってゆきます。
そして最上階に、マヤコフスキーの居室がありました。
机と椅子、本棚、暖炉、コーヒーテーブルとソファ…といたってシンプルな部屋です。
机の前に一枚だけ、写真が貼ってありました。
(あ、レーニンだ…)
と一歩前に出ようとした瞬間。
目の前で扉が閉められました。

なぜ?どうして?と扉を閉めたおばさんにつめよると、
これ以上見てはいけない…
とロシア語で言っているようです。
そしてワタシのメモをとりあげようとしました。
なぜ、どうして…ととまどいながら取りかえし、
コミュニケーションをとろうとしましたが、
彼女はワタシのわからないロシア語で何やらまくしたて、追い払おうとしました。

不条理。

1930年、マヤコフスキ−はこの部屋で、ピストル自殺をとげたそうです。
スターリンによる圧制のはじまりに絶望した、とも、
かなわぬ恋の苦悩ゆえ、ともいわれています。
最後に目にしたのは、レーニンの肖像だったのでしょうか。

マヤコフスキーは、随分とポートレートを残しています。
それをみると、かなりの美男子。背も高かったそうです。
ナルシストだった…ような気もします。

お目当てだった当時の抽象的なグラフィックや、
マヤコフスキ−自身のイラスト
(彼が新聞記者をやっていたときに、「ロスタの窓」というイラストで
 文字の読めない庶民に主張を伝達したそうですが、この作風が非常に
 アイロニックで素朴でかわいらしいのです)
などなど見られて、本当に満足したのですが…

展示の最後で、またしても不条理な出来事が。
とつぜん、展示スペースで5,6人くらいの男女が叫びはじめました。
「真実ってなんだ、真実ってなんだ」
「知らないわ」
どうやら芝居の稽古らしいのです。
見回りのおばちゃんが稽古をみていたので、ワタシも見ていたら、
しばらくして追い払われました。

ここで、意味や理屈を探そうとしても、無意味なことかもしれません。
なんといってもマヤコフスキーという人自身が、ラビリンス(迷宮)だったそうですから。
この展示をデザインした人は偉大だ…と思いました。
アートディレクションはフランス人だそうですが、よくわかりません。

終わりに、入り口(出口)の本屋で、これでもか、というくらい買い物をしました。
入れ墨のお兄ちゃんもすごく愛想がよくなって、
大判のポスターをロシア紙で品よく包んでくれました。
これも買っていきなよ…とマヤコフスキーの詩集を差し出されましたが、
言語の習得以前の問題かも…と思って慎んで辞退しました。





2001年ロシアの旅(24)
Date: 2001-12-25 (Tue)

宇宙と犬

旅行に出る前、たまたまNHKでやっていた
宇宙開発についてのアメリカのテレビドラマにはまりました。
アポロ計画の前史から、月到着、そして月面探査までを回数を重ねて、
アメリカの国力の発揮とソ連との競争に翻弄される人間たちを描いたものです。
それは、人類が月に立つ瞬間をリアルタイムで知らないワタシにもかなり感動的でした。
人間ってすごいなあ、アメリカってすごいなあ、と単純に思ったものでした。

ウェッブを調べていたら、モスクワに「宇宙飛行士博物館」があると知りました。
中心部から地下鉄を2回乗り継いで行かなければならないので、
ちょっと遠くていやだな、と思ったのですが、
とりあえず行ってみました。

で、ソ連の方はどうなの?
という単純な興味からです。

1961年、ソ連のガガーリンに、「地球は青かった」と先に言われなければ、
たぶんアメリカは、月面到着にあんなにやっきにならなかったでしょう。
ケネディも「我々は月到着への目標を選択した」と絶叫することは、
たぶんなかったでしょう。

宇宙開発は冷戦のたまもの、そう言っても過言ではないと思います。

ベーデーネヌハー(ВДНХ)という変な名前の駅に降りて、
目印は「宇宙征服者のオベリスク」。
天にむかって半円を描いた塔のてっぺんに、ロケットのオブジェが
ついています。
公園を歩くと、道の向こうに見えてきました。

このオベリスクの根元には、労働者や科学者、宇宙飛行士が
宇宙を目指す大きなレリーフが壁一面につくられています。
そして、その背景には、レーニン。

いかにもソ連といった大仰な建築物です。

さて、この地下に博物館があるはずなのですが、どこが入り口なのか、
よくわかりません。
遠めに「全ロシア展覧会場」の大観覧車と、高さ540mの「オスタンキノ・テレビ塔」
が見えました。

裏にまわってようやく入り口がみつかり、チケットを買って入りました。
展示室は2つにわかれ、入り口に近い方で、写真やポスター、宇宙飛行士の私物など
を展示して、宇宙開発の歴史を紹介している、ようでした。

この「ようでした」というのは、展示がすべてロシア語でなされていて、
ワタシにはまったく読めなかったためです。
それでも、有名なガガーリンの顔は知っていたので、
これが飛行前/飛行後の写真かあ、とか、
ばりばりのロシアリアリズムで描かれた、ハンマーをかかげたガガーリンの
ポスターなどはかろうじて目をとめることができました。
(宇宙飛行士とハンマー…これはソ連のシンボルがハンマーとつるはしであること
からきています。けして、宇宙空間でハンマーをふるっていたわけではありません)

ワタシは会社の先輩から、ライカ犬グッズを探してかってくるように、
と厳命されていました。
「ライカ犬」というのは、1957年11月、ソ連のスプ−トニク2号にのって
世界で初めて宇宙空間に滞在した犬のことです。
(正しくはライカ犬ではなく、名前が「ライカ」というテリアだったそうです)
この犬は、7日間宇宙船の中で生存しましたが、
ブースター切り離し時に熱制御システムが故障し、カプセルが過熱したことで
死亡したそうです。

当時、動物保護団体などから批判されたそうですが、
ソ連は「ライカ」を宇宙開発の殉難者としてたたえたそうです。
展示の一角には、当時、ソ連で売られていた「ライカ」チョコレ−トや
「ライカ」靴みがきなどが展示されていました。
たぶん、ソ連国民の間では一世を風靡したことでしょう。
でも、この博物館にはミュージアムショップといった気の利いたものはなく、
当然のように「ライカ」グッズは売られてなかったのでした。

もうひとつの展示室は暗室になっていて、ロケットや人工衛星、宇宙服などが展示されています。
人が乗ってたものは回収されて実物が展示されているようですので、
お好きな人はきっと興奮することでしょう。
ワタシは、こんなちっぽけで粗雑そうなもので人間を宇宙空間に飛ばすなんて、
ソ連もすごいなあ…と呆然としながら歩いていました。

と、展示のすみっこに。
ありました。
「ライカ」のレプリカとともに、犬専用のカプセル(たぶんレプリカ)と、
なんと犬用の宇宙服が。
それはあまりも小さく、そして腕の部分がいたんでいて、なんだか不憫になりました。

むかし「マイライフ・アズ ア ドッグ」という映画があって、
主人公の少年が、
「僕の人生は、宇宙の屑となったあの犬よりはましかもしれない」
と空を見上げて感傷的につぶやくセリフがありましたが、
(そして当時はケっと思いましたが)
やはり、この犬の運命を思うと感傷的にならざるを得ませんでした。

地上では、犬の心臓の鼓動をキャッチしていました。
えさを食べたり吠えたりした様子も受信していました。
そして7日後…心臓の鼓動が絶えた宇宙空間…
想像すると涙が出そうになりました。

展示室には、テレビのモニタがあって、宇宙開発の歴史と、
事故で死亡したソ連・アメリカ双方の宇宙飛行士がオーバーラップする映像が
流れていました。

数多の困難を乗り越え貴い犠牲を払って、輝かしい未来を手にいれた人類…
それに対して異存は無いのですが、
成功の影にある失敗や犠牲にひっそりと手をあわせたい、
そんな謙虚な気持ちになりました。
たぶん、権力による顕彰があまりにあからさまで、
うさんくさく感じたせいかもしれません。

ひとしきり展示を見た後で、外に出て、非常な疲れを感じました。
ワタシは、遊園地の入口前の出店で食べ物を買って、
木立の中に腰をおろし、しばらくタバコを吸ってぼんやりとしました。

公園の入り口にあった宇宙飛行士のブロンズ像は、妙にツヤツヤとしていました。






2001年ロシアの旅(23)
Date: 2001-12-18 (Tue)

都市モスクワ

モスクワ川のほとりで、一人の日本人学生が、ワタシの視界に飛び込んできました。
「すみません、地図、持ってますか?」
そう血相を変えて近付いてきた彼に、ワタシは一瞬、面くらいました。

なんで君は地図も持たずに旅行をしているのかね…と尋ねると、彼は、
「別にモスクワに来るつもりはなかったんだけど…」

S君は、シベリア鉄道でヨーロッパ入りする予定でした。
飛行機か鉄道で、かつてのバルト3国・リトアニアに行く、
その中継点のモスクワでチケットを手配しようと思ったのですが、
「なんか他の国と全然違いますね、文字も違うし英語も通じないし…」
何より、ビザの関係で48時間しかモスクワにはいられないのです。
明日中にはこの国を出なければならず、かなり焦っている、という訳でした。

ワタシもこれはかなりヤバいと思いました。
モスクワは、ずいぶん楽に旅ができるようになったようですが、
油断してるとやっぱりガツンと国とか体制の違いにぶつかります。
とりあえず、ヨーロッパ行きの鉄道のチケットが買える駅まで
一緒にいくことにしました。

歩きながらS君は言いました。
「モスクワは、役所とか政治に関係のある建物ばかり目につきますね」
たしかに。モスクワは政治の中心地です。
そして、政治に関係のある建物は、やたらと目につきます。

たとえば、外務省です。
ビル、なのですが、屋根がゴシック様式の教会のように段階的に空へ伸びていて、
威圧的な装飾がゴテゴテとついています。
宮殿のような、教会のような建物なのですが、見ていると胃のあたりが落ち着かなくなります。

このような建物は「スターリン様式」といって、モスクワにはたしか7つ程ありました。
役所だけでなく、ホテル、アパート、大学などが、赤の広場を中心とした円の上に
配置されていて、「なんだか風水みたい」と思いました。
たぶん、国威発揚とか工業化誇示のためスターリン時代につくられたので、
「スターリン様式」と呼ばれるのでしょう。

「地下鉄もびっくりしましたよ」
そう、地下鉄のプラットフォームも驚きです。
気が遠くなりそうなほど長いエスカレーターを下ってゆくと、
劇場のホールかしらと思うようなプラットフォームがあります。
それぞれデザインは違っていて、シャンデリアやしっくいの装飾で飾られているかと思うと、
黒を基調としたシックなデザイン、壁一面をモザイク画で飾ったギャラリー風と、
よくもまあこんなにバラエティーに富んだ駅をつくったな、と、その想像力に脱帽します。

一説には、防空ごうとしてつくった、とか、有事の際は軍事基地になる、とか
言われます。
地下鉄の建設も、1930年代つまりスターリン時代に計画され、建設が進められました。
「うちの国はこーんなに工業化が進んでいるんだよう」
と誇示するためだったといいます。

「道もよくわからないですね。ずいぶん迷いましたよ」
そりゃあ地図を持って無ければ迷うでしょう…
いやいや、地図を持っていたとしてもよく迷います。
その理由は、モスクワが放射線状に造られている都市だからです。

赤の広場を中心に、道が放射線状に伸び、それを幾重もの環状線が結んでいます。
扇の要付近で迷えばロスも少ないのですが、中心から離れれば離れるほど、
歩く距離が長くなり、とても疲れます。
辻々であらたな円の起点となる「広場」は、
交差点というよりロータリーで、6〜7の道路が交わっているのもざらです。
そうなると、もうどこから来たのか、どこへ行けば良いのか、
方向感覚がなくなって目隠しをされたようにわからなくなります。

モスクワは人口850万人といわれ、けっこう大きい都市です。
東京よりも小さいですが、大阪よりも大きいのではないでしょうか。
放射線状になっていること、中心にメインの川が流れていることから、
都市のつくりはパリに似ている、と思いました。

S君とは、そんなモスクワの感想をだらだらと話しました。
「僕、絶対にリベンジしますね」
としきりに言ってました。
ワタシはそんな時間のある学生さんがちょっとうらやましかったです。

チケット売り場は8時半に閉まります。
ワタシは、S君を2駅となりの地下鉄まで連れていって、
乗り方と標識の見方を教えて別れました。
腰が痛くて痛くて、早く帰りたかったからです。
それに、彼はずいぶんタフな旅をしているようなので、
一人で歩いても大丈夫だろう…と。

S君と別れた時は、8時を少し回っていました。
彼は無事にチケットを買うことができたでしょうか。
最後まで送ってあげれば良かったかも…と別れてから少し反省しました。



2001年ロシアの旅(22)
Date: 2001-11-16 (Fri)

ボリスの墓地

さて、次です。
旧KGBのミーシャ司令官から、
その日--8月22日--は、クーデターで亡くなった3人を悼むセレモニーがあると聞ききました。

セレモニーの行われる場所は、「バガニカフスカヤ クラーディッシャ」
すなわち「ボリス墓地」でした。
「ボリス、というのは、エリツェンのことですね。ボリス・エリツェン。前の大統領です」
と、Tさんが教えてくれました。
自分の名前をつけちゃうなんて、エリツェンもすごいな、と思いました。

ボリスの墓地は、ホワイト・ハウスの近くにあります。
しかし、ワタシの地図は少々古いようで、その名前は乗っていません。
Tさんに行き方を尋ねると、
地下鉄の駅からは車をとめて連れていってもらいなさい、と言いました。
白タクです。
ワタシが尻込みすると、
「モスクワはとても安全な街です。だから、大丈夫」
そして、墓地はとても広いから…と、ノートに亡くなった方の名前を書き、
「迷ったらこれを人に見せて場所をたずねなさい」
と言いました。

安全だ、と言われても、白タクを使う気はありませんでした。
ところが、駅に着いて地上に上がってみると、右も左もわかりません。
仕方なしに、スタンドでビールを飲んでるおじさんに、
墓地の場所を聞きました。
「そこらで車をひろって連れていってもらいな。
 大丈夫だよ、モスクワは安全なんだから安心しな」
俺らはみんなそうやって移動してるんだよ…ノープロブレムだ、と背中を押され、
ワタシは勇気をふるって道ばたで手をあげ、車をとめました。

乗り込む前、必死に1ドル札を見せてOK?と聞くと、
運転をしてる人は、手招きして乗せてくれました。
そしてノートを見せると、黙ってスタートしました。
車中、ふたりとも無言。
そしてしばらくして到着。
ワタシがやっと笑うと、運転手さんも笑いました。
投げキスをされたときには、面食らいましたが。

さて、墓地の敷地に入ると、目眩がしそうなほどお墓が並んでいて、
それらしいものが見当たりません。
派手なチンピラ風のおじさんたちがいたのでノートを見せて尋ねると、
にやにや笑って出口の方を指差します。
ワタシは困ってしまって、帰ろうかな…と思いました。
そのとき、向こうから大きなカメラを下げた男の人が早足でやってきました。

たぶんプレスの人だ、と思って声をかけると、案の定そうで、
自分もこれから行くからついてきなさい、と言いました。
彼は「ロシア」紙のカメラマンでビクトルさんといいます。
栗色の髪とひげを生やして眼鏡をかけた、背の高い、やさしそうな人でした。

途中、プレスの人とすれ違いました。
ビクトルさんが声をかけると、不機嫌そうに何か言って、
首をふりながら足早に立ち去りました。
ビクトルさんは、
「私もあなたも遅すぎた」
と言いました。
え、セレモニーをやっているのではないの?
と聞くと、彼はしぶい顔をして、
「セレモニーは午前中で終わった。僕はその後の参拝者の写真を撮りに来たんだけど…」

3人のお墓に着くと、まわりは赤・白・青の花が捧げられきれいにディスプレイされていました。
でも、人影はまばらです。

 3人が亡くなったのは、8月20日、クーデター発生2日目のことです。
 ホワイト・ハウス周辺を守っていた民間人の輪に、
 装甲車がつっこみ、以下の3人が犠牲になりました。
  イリヤ・クリチェフスキー氏、当時28歳、建築家。
  ドミトリー・コマール氏、当時23歳、アフガニスタン戦争従軍兵。
  ウラジミール・ウソフ氏、当時37歳、会計士。

ワタシは一礼をして、シャッターを切りました。
ビクトルさんは…と見ると、彼は絵づくりに難儀してました。
参拝にやってきたおばさんをつかまえて、何度も前を歩いてもらったり、
花を捧げてもらったりしています。
ワタシもその苦労はよくわかるので、しゃがんでじっと彼の「仕事」を見ていました。

墓地には、二人のおじいさんがふらふらしていて、写真を撮ってる人に話し掛けています。
ワタシも「どこの新聞だ」と聞かれました。
ツーリストだ、と答えると、どこから来た、何故来たのかとしつこい、しつこい。
閉口して逃げると、今度は別の人に俺を撮れ、と絡んでいました。

そうこうしているうちに、ビクトルさんは浮かない顔をして戻ってきました。
「朝だったら、ゴルバチョフも来ていたんだよ」
知っていたなら、なぜ来なかった…
と、つっこみたい思いにかられました。

あーあ、ゴルバチョフさん見たかったな…と呟くと、
僕もゴルバチョフさん撮りたかったな…とビクトルさんも呟いて、
顔を見合わせながら、力なく笑いました。

間抜けなプレスの人は他にも何人かいて、皆一様に不機嫌な顔をして、
シャッターを切ったり、ムービーを回したりしていました。
きっと「参拝者は一日中、ひきもきらなかった」という絵を撮りたかったのでしょう。

その後、車を拾って駅まで帰る、というワタシを、
ビクトルさんはよかったら自分の車で送るよ…と乗せてくれました。
「白タクはやめた方がいいよ…他に見たい所ある?」
と言ってくれたので、もう一度ホワイト・ハウスを見に行きました。
するとその裏手に、コンサート会場が設営されていました。
「今晩、10周年記念のコンサートがあるよ」
取材する?と聞いたら、あーあんなもの、と顔をしかめます。
コンサートに来る若者たちは、政治なんて関係ないんだよ…
と、さびしそうに言いました。

駅について、会社に戻りたくないなあ…とぼやくビクトルさんと、
握手をして別れました。

余談ですが、彼はちょっとワタシの好みの人でした。




2001年ロシアの旅(21)
Date: 2001-11-13 (Tue)

ジェルジェンスキ−像のゆくえ

おぼえていらっしゃるでしょうか。
10年前の夜中、群集がKGB前にあつまり、
銅像がクレーンで引き倒され、吊り上げられた映像を。

その日は、現地時間の8月22日でした。
午後、赤の広場では、何万人もの人々が集まって、
クーデター失敗を祝う「勝利集会」が行われていました。
その場に駆け付けたワタシは、
「ロシア、ロシア」という怒号と、
彼等が掲げるロシアの三色旗の大きさと、
何よりあの広い広場をうめ尽くす人々の群れに、ただただ目を見張りました。

彼等は、赤の広場脇のマネージ広場に集まり、演説を聞いた後、
ソ連邦の最高機関があるクレムリンの目の前--すなわち赤の広場--を、
新生ロシアの象徴である三色旗をかかげて、練り歩いたのでした。
ロシアは、ソ連邦の下部にある共和国でした。
「大逆転だ」
とワタシは思いました。

赤の広場に集まった群集のエネルギーは、その後、
歩いて20分ほどのKGB前に向けられました。
そこに、KGB初代長官のフェリックス・ジェルジェンスキーの銅像が建っていたのです。

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「モスクワ・タイムス」は「10YEARS AFTER THE COUP」と題した特集の中で、
当時のことを記しています。
群集は、1万5千人。指導者がハンドル不可能なほど、
これまでの圧制から解き放たれて昂揚し、一部はたいそう酒に酔っていたそうです。
彼等は、一斉にジェルジェンスキー像に向かい、
ある人達は像のてっぺんまで上って首にロープをかけました。
像を倒すために。

しかし、銅像はなかなか倒れません。
群集の興奮も最高潮に達し、像のてっぺんにいる人は酔っぱらい、
これ以上放置しているとけが人が出る恐れがありました。
集会の指導者は、駆けずり回って、機材を調達しようとしましたが、断られ、
引き倒しは翌日に回すよう呼び掛けましたが、群集にののしられ、どうにもてづまりの状態でした。

「このままでは、群集が反乱者に転じる」
とモスクワのポポフ市長は恐れました。
それにちょうど地下には地下鉄が通っています。
銅像を地面に引き倒すことは、避けねばなりません。

そこに手を差し伸べたのが、アメリカ大使館です。
アメリカ大使館は、敷地で工事をしていたので、ちょうどクレーンを持っていたのです。
彼等はアメリカの申し出を受け入れ、
クレーンは真夜中に到着し、そしてめでたく銅像は吊り上げられたのでした。

アメリカが助けたなんて、皮肉だなあ…
さっすが「世界の警察」…
そう思って、ワタシは新聞を閉じました。

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さて、ジェルジェンスキー像のゆくえです。
「スパイ博物館」のミーシャ長官が教えてくれました。
現在では、博物館の庭園におさめられている、とのことです。

なるほど、論争のあるものは、全部博物館におさめてしまえばいいんだ、
と、ワタシは8月15日前後の日本でのさわぎを思い出しました。
これは皮肉ですが。

旧KGBビル前はロータリーになっていて、かつて銅像のあった場所は、
花が植えられ、主は不在のままです。
反権力の作家・ソルジェニーツェンの銅像が建つという計画もあったそうですが。
台座もありません。
像を倒した翌日、乗り遅れた人の群れが、
残った台座をハンマーでしつこく叩いていました。
乗り遅れたワタシも、アブナイ、アブナイと言われながら、
シャッターを切っていました。

ということで、ワタシは後日、銅像があるという「芸術公園」に行ってみました。
「芸術公園」はその名の通り、美しい緑の庭園に白亜の彫像が並んでいる、
「芸術の森美術館」のような所です。
併設する美術館の人に、
「じぇるじぇんすきーハドコニアリマスカ?」
と尋ねましたが、誰も首をふって知らない、といいます。

一体どこにあるのか…とてろてろ歩いて探しました。
木立のむこうに、旧ソ連のモニュメントがゴミ捨て場のように積まれているのが見えました。
行ってみると、ありました。

落書きされていた台座はすっかりきれいになり、
「フェリックス・ジェルゼンスキ−」の名前がくっきり見えます。
まぎれもなく、かつて権力の象徴で、
かつ、市民勝利の瞬間をいろどった銅像のはずですが、
木陰の中に佇む像は、ワタシの記憶よりも、ひとまわり小さく見えました。

「こうして見ると、工芸品みたいだなあ」
と、ベンチに座って、しばらく鑑賞しました。

奥まで歩いていくと、木彫りの不思議なモニュメントが林立していました。
人のようなのですが、顔がありません。
人のようなのですが、体の輪郭がぼやけています。

さらに不思議なモニュメントがありました。
石垣に鉄条網がはりめぐらされ、そのなかにごろごろと石がつまっています。
よく見ると、人の頭ぐらいの大きさで、かすかに目鼻のかたちが彫られています。
(なんだか牢屋みたい…)
と思いました。

まわりには、石のかたまりが点在していました。
人がしゃがんでいるようにも、
ひざまづいているようにも見えます。
しかし、それは熱湯をかけられた像のように表面が溶け、
人の輪郭をとどめてはいません。

これは一体なんだろうなあと眺めていたら、
見覚えのある銅像がその敷地の中央に建っていました。
鼻先を叩きこわされた、スターリンです。
どうも彼の圧制と収容所を象徴した彫刻のようでした。

夕陽が落ちてくるのもかまわず、
ワタシはベンチに座って、タバコをすいながらぼんやりと眺めました。
家族づれや、恋人たちがさざめきながら、通りすぎてゆきます。
観光客がやってきて、敷地のなかにずかずか入って写真をとってゆきます。

気がつくと、女の子が二人やってきました。
牢屋を模したモニュメントを不思議そうにながめ、
中の石を棒で叩きはじめました。
そして、スターリンの台座によじのぼり、
歌を歌いながら、彼のまわりをぐるぐると回りはじめました。
わずかに前屈みになったスターリンおじさんと、遊んでいるような構図でした。

そして、おかあさんに呼ばれて女の子たちが立ち去ったのを機に、
ワタシもどっこらしょと立ち上がり、帰路についたのでした。






2001年ロシアの旅(20)
Date: 2001-11-08 (Thu)

KGBスパイ博物館

ワタシが、かつてのソ連に対して持っている「無気味」「恐い」というイメージは、
スターリンの粛正やそれを助けた秘密警察「KGB」に起因するのだと思います。
もっとも、こういった権力に反する者を捕らえ、抹殺する組織というのは、
かつてのソ連一国に限ったことではなく、
ある時代、世界のどこかに存在した/するものです。
実際に自分が生きている社会に存在すれば、ワタシは臆病者なので、
たぶん、できるだけ関わらないようにするでしょう。

でも今回は「恐いもの見たさ」の興味本意で、でかけてみました。
KGBスパイ博物館。
旅を手配した旅行会社のパンフレットで偶然見つけ、
日本語通訳のできるガイドさん同行で行ってみました。

ソ連邦崩壊後、KGBは「ФСБ・ロシア連邦安全保障機構(Federal Service of Security of Russia)」
という組織になりました。
「スパイ博物館」という名称は、おそらく日本語でわかりやすくした通称だと思います。
ロシア語では「KGBの歴史を開示するホール」という意味で、
アンドロポフがKGB長官だった1984年に開館しました。

ホテルのロビーでガイドのTさんと待ち合わせ、かつて牢獄があったルビヤンスカ広場
まで歩いて行きました。
ロシア人のTさんは、私たちの会社では誰も行ったことがありません、
でも個人的にはとても興味があります、と言いました。
特殊な言葉を使うので、日本語に訳すのは難しいと思います、
と心細いこともつけ加えました。

ルビヤンスカ広場の裏側から入りました。
Tさんは声をひそめて、
「この辺一帯はすべてKGBの建物です。ほら、この紋章がついているのは全部そうです」
見ると、有名な黄色のビル以外に、銀行風の建物や、雑居ビル風の建物にも、
その紋章がついています。
ワタシたちはなんとなくこそこそと、博物館が入っているビルへと向かいました。

博物館が入っているビルの1階には、普通に商店がテナントとして入っています。
「これも敵(だれだ?)をあざむくカモフラージュか」
ロープを渡した玄関前に、白いスーツを来たおじさんが立ってました。
Tさんはロシア語で挨拶し、この人が解説してくれる人です、と言いました。

白いスーツを着たおじさんは、まんまるの目が愛嬌ある「小熊のミーシャ」のような人です。
旧KGBの司令官だった人です、と紹介されましたが、とてもそんな悪人(失礼)には見えません。
おじさんの先導で、暗い1階ホールを抜け2階へとあがりました。

入り口で、写真をとってよいのは2ケ所だけです、と言われました。
KGBの紋章がレリーフになっている壁と、任命式などが行われたという入ってすぐの一室のみ。
とってはいけないようなものといったら、なんだろう、
拷問の再現とか、これまで粛正した人たちの顔写真とかかな…と思ったのですが、
そんなものはなく、時代に沿ったディスプレイが整然と並んでいました。

この博物館は当初、KGB新入りの研修機関としてつくられ、
89年からKGBの下部組織、工場の代表者、教師や生徒を受け入れるようになり、
その後、外国人のゲストを受け入れるようになったそうです。
つまり、
「まったく秘密主義じゃないんだよ、我々はオープンなんだよ、
KGBの規則だって今じゃインターネットでみることができるんだから」
というようなことをひとしきり説明された後、
四つの展示室の説明がはじまりました。

説明の基本は、KGBという組織がいかに国家防衛の為に役に立っているか、ということでした。
第二次世界大戦についても
「悪者ゲルマン(ドイツ)から祖国を守るために、情報を集めた」
とか
「我々の特別な任務によって、ゲルマンの中でも特別に悪い奴を排除することができた」
とか、そういう風に説明されました。

Tさんが日本語で説明すると、
「この武器は、戦争で日本からもらった(!)ものです」
「この銃は、アフガニスタンの人たちからもらった(!)ものです」
という風になります。
ワタシが首をかしげると、はーっとため息をついて、通訳をやめてしまうことには困りました。

各時代、敵やテロリストから「もらった」武器の展示をながめ、
情報収集、つまりスパイをするための道具の変遷をながめました。
日本の家電や時計、カメラなどが匡体として使われているのを見て、
いいのか、思いました。

さらにスパイ技術の講議までしてくださいました。
得た情報をどうやって組織の人に渡すかというと、色んな方法がありますが、
たとえば、車の窓から茂みに小筒を放りなげて、後から取りにいくのです…
(そんなんでうまくいくのですか?)
と聞いてみたくなりましたが、外国人に本当のことは言わないのでしょう。
きっと、こんなにズサンなことやってるんですよーと、
敵(だれだ?)を欺いているのに違いありません。

さて、旧KGB、現在のФСБの任務は何かというと、
麻薬の取り締まり、テロの予防、古美術品の密輸出取り締まりなんだそうです。
「これらは、世界の仲間たちと一緒になって取り組んでいます」
と誇らし気にいうTさん。
「イコンなどロシアの大切な宝物を取りかえすことができて、
 たくさん感謝されています。
 これは、モスクワの教会からもらった感謝状です」
誇らし気に、賞状を指し示すミーシャ司令官。

質問があったらどうぞ、というので
「はじめにKGBの制服が展示されていましたが、いつ着るのですか?」
と聞きました。
すると、ミーシャ司令官は、
「あれは、私が現役時代に着ていたものです。
 デザインが少しずつ違うのがわかりましたか?」
と嬉しそうに言いました。
だーかーらー、秘密警察なのに、
制服を着てたらわしがKGBじゃあと触れ回っているようものでしょ、
いつ着るの?って聞いてんのよ、
とつぶやくと、あわてて通訳するTさん。
ミーシャ司令官はそれを聞いて不快げに、
「建物の中にいるときとか、セレモニーのときに着ます」
と答えました。

最後に、KGBの紋章が入ったカードをプレゼントされました。
あんまり嬉しくなかったのですが、Tさんは嬉しそうにもらってました。





2001年ロシアの旅(19)
Date: 2001-11-06 (Tue)

ホワイト・ハウス

8月19日の集会を見のがしたワタシは、とてもくやしい気持ちで翌朝目覚めました。
朝食をとってテレビをつけたら、10周年記念の特別番組をやっていました。
インタビューと当時の映像で構成されたそれを横目で眺めながら、
支度を整え、ロビーに降りました。

ロビーに、英字紙のモスクワ・タイムスがありました。

トップ記事はやはり昨日の集会でした。
ホワイトハウス前の集会--クーデター失敗を祝う会--
に参加した人のインタビュー
「自分は毎年8月19日のイベントに参加していたが、
 今年ほど多くの人々をみたことはなかった」
という記事を読んで、ワタシは、唇を噛みました。
どうやら、1万人ほどの人がその日行われたイベントに参加したようです。
記事の前半は、「民主派」の熱意について触れられていました。

ところがページをめくると。
かつてホワイト・ハウスを守った人から、
集会に姿を見せなかった現在の大統領プ−チンに対しこんな批判が。
「彼は2、3日前から休暇旅行になんかでかけて、
 今回のイベントも全く無視している」
ラディカルな民主派の人によると、
「まあ、政府が沈黙してるのも当然だね。
 やつらは、クーデターの残存勢力なんだから」
なんだそうです。

クーデターを起こした人たちがしたかったこと、
それは、国が分裂しないようにすること。
これこそ、プ−チン大統領が現在行っている政策だ、と守旧派の弁。

別の場所で集会を行った守旧派の人は、
「まったく、クーデターが成功していたら、ソ連邦はまだ大国で、
 よその国からは尊敬もされるし、恐れられてもいたのにねー」
と悔しがっていたらしいです。
「まあ、2003年ぐらいに新しいクーデターをおこすよ。
 いわゆる「民主派」の連中は始末するけどさ、
 何百万人ものロシア人は救えるよ」
ワタシは前日に見た守旧派の人たちの、元気のない集会を思い出し、
どうなんだろうねえ、と思いました。

また中立的(?)な立場からは、60歳女性からこんな発言。
「プーチンさんが、休暇旅行に出た気持ちもわかるわー。
 だって、彼は私達の社会を一つにまとめようと努力してるんだもの。
 「民主派」と「守旧派」の戦争を終わらせようとしているの。
 彼がやってることはまったく正しいことだと思うわ」

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とりあえず21日(民主派がクーデターに勝利した日)までは、
どこかで何かはやってるみたいなので、フロントの人に尋ねました。
「クーデター10周年みたいだけど、
今日どこかで集会などやっているか御存じありませんか?」

フロントの人は、じーっと考え込んでこう答えました。
「モスクワはとっても大きい都市です。
 たしかに、今日もどこかで何かが起こっていることでしょう。
 でも、お客さま、安心してください。
 あなたが普通に観光されていれば、危険なことはまったくありませんから」

そうですか、ワタシは観光よりも危険なことの方がいいんですけど、
と思ったのですが、20日のその日はとくに何もなさそうなので、
普通に観光に出かけました。

観光を済ませて、夕方、「ホワイト・ハウス」を見に行こう、と思い立ちました。
昨日行っておけばよかったなあ、と思いながら。
でも地下鉄の駅から少し離れていて、行くのがおっくうなのです。
ソ連のときのように「赤の広場」脇のクレムリンで全て済ませてくれたら、
ラクだったのにな…
とぶうぶう愚痴をたれながら、歩きました。

案の定、地下鉄をおりてすぐに道に迷いました。
地図を見て歩けば歩くほど、人通りはだんだん少なくなります。
心細くなって、中古自動車屋の前でぶらぶらしていたおじさんに尋ねました。
「グジェ ホワイト・ハウス?(ホワイト・ハウスはどこですか?)」
その人は、だまってワタシの手をとって歩き始めました。
どこに連れていかれるか、正直こわかったのですが、
川のほとりまで出ると、彼は一生懸命身ぶり手ぶりで教えてくれました。

橋の向こうに小さく見える建物。
それが通称ホワイト・ハウス。
ロシア連邦内閣ビル。
現地の人にもこのふざけた外来語の名前が通じちゃうなんてすごいな、と思いました。

川ぞいを必死であるいてようやく「ノヴォアルバーツキー橋」にたどりつきました。
橋の中程までゆくと、ホワイト・ハウス全景がファインダーにおさまります。
ちょっと横長のビルで、なるほど色は白いです。
まわりは柵に囲まれ、誰も出入りはしていません。
恩師のお弟子H氏によると、ここでの集会は届け出しないとできない、ということでしたが、
整然と静まり返って、これでは適当に集まってさあやるか、というのは無理でしょう。

それにしても、集会参加者は皆歩いてここまでやってきたのだろうか…
車を停める場所はなさそうだしねえ…
と、ワタシは痛む腰を押さえながら思いました。




- Sun Board -