HomePage Search PastLog Admin

コラム あんの「月あかりの下で」

つれづれなるまにつづったくらしの余話
筆者にメッセージを送ろう♪ここをクリック!


闘病(4週目)
Date: 2005-10-12 (Wed)

2001年7月2日(月)

7月4日の手術を前に、プロポリスの先生に
いつまで母に服用させて良いか尋ねたところ、
今日まで飲用させ手術前日から飲ませないこと、
術後は主治医より水などを飲んで良いと指示があったら、
プロポリスを飲ませてよいと説明を受けた。早速、父に連絡。

仕事を終わらせて病院に行くと、ちょうど輸血が終わったところだった。
夕方頃、従兄弟夫婦は茨城に帰ったそうだ。
名残惜しそうに帰って行ったそうだが、母は最後まで皆を気遣い、
「この通り元気だから、心配しないでって兄貴に伝えて。」と言ったらしい。
 うがいをさせ、鼻の消毒を手伝って、家に帰った。


2001年7月3日(火)

今日から3日間、会社を休む。
母は手術前のため、体毛を剃りに処置室へ。
その後、シャワーを浴びたので、ドライヤーで髪を乾かしてあげた。
全く、私ってブローがヘタクソさ!

主治医の話しは夕方18:30からと言うことだった。
明日の手術の説明って言うのに、えらい遅い時間やなー。
でも、結局先生の都合で19:30からになった。
18:50頃、看護婦さんが明日の手術に備えて
下剤を飲むよう持ってきた。30分くらいかけて1本飲むように言われた。
ところが、30分では飲みきれず、おまけに19:25頃麻酔科の先生が説明に来られ、下剤を飲むのは中断されてしまった。

んで父と私は、19:30頃から別室で母の病状の説明を受けた。
これまでずっと聞かされてきた話しと、別に違ったところはなかった。
そして最後に先生は「これが手術の同意書です。今回手術前の説明を、本人とご家族別々でするのはまれなケースなのですが、告知をしたくないということともう消灯の時間も過ぎているので、こういう形となりましたが。辛い治療になりますので、ご本人にきちんと説明したほうが治療の効果が出やすいと思われますが。」と手術前日になっても、告知を勧められた。

「明日ご本人にも手術と今後の治療の説明をします。隠したままでの治療は無理です。」と言う。そして本人に聞かれたことに対しては、ウソはつけないと言う。父が「余命何ヶ月というようなことは言わないでもらいたい」とだけ言った。先生は、手術の直前まで手術をキャンセルすることは可能だと最後に付け加えた。どういう意味?母に全てを話して、母が手術を拒否するなら、それも致し方ないと言うこと?

手術後1週間が山で、術後の経過を見ながら、
癌細胞が悪さを始める前に、抗癌剤の投与を行なう必要があるだろう、
万にひとつの可能性にかけて、治療がうまくいき、
肝臓の癌も抗癌剤で散ってくれればいいですね、と主治医は言った。

これまで何度も聞かされた話しだったが、
母の病気がここまで進んでいる(治る見込みが全くない)ことを考えると、
私の頭のなかに「治療をしない」という選択権を母に全く与えないのは、
本当にそれで母が納得できるのか自信が持てなくなっていた。

父にそのことを告げると、
「そうは言ってもこのまま(出血が多い状態で)帰る(島に)わけには
いかないだろう」と言った。それに手術当日に全てを聞かされたって、
かえって母が混乱するだけかもしれなかった。
ここまで来た以上、もう後には引けないのだった。

家に帰って食事をした後、父が頭を抱え込んでいた。
「もう、どうしたらいいのかわからない」…と途方に暮れた様子で。
主治医の母に対する明日の説明が心配らしい。
でも、ここで考え込んだって仕方がない。と言うと非情に聞こえるかもしれないけど、ここで考え込んで落ち込んだって、明日にならないと母の答えはわからないわけだし、先生の話しを聞いて母が決めたことなら、それに従うしかない。

「もしお母さんが手術しないって言ったら、どうすればいいんだ…」と父。
「このまま島に帰るとは絶対言わないと思うよ。
でも、もしお母さんが手術をしないと言ったら、
プロポリスの先生に相談しようよ。そのときは私が仕事辞めて、
ずっとお母さんに付き添うから」そう言って床についた。


2001年7月4日(水)

いつもより少し早く起きた。
父と朝食を取り、出かける準備をしていたら、
南側の窓を開け、父が神スサノオの大神に祈り出した。
母が信じている神様だ。私も手を止めて、父の後ろへ座り、一緒に祈った。

タクシーで病院まで行った。9時10分前に着いた。
中央病棟に向っていたら、後ろからガラの悪そうな声が聞こえた。
父の仕事仲間だった。しばらく見ない間におっさんになっていた。
病室で母の着替えを手伝っていたら、
父の弟が来た。手術の日は心細いだろうからと、わざわざ来てくれた。

10:30から、父と私立ち合いのもと、
主治医は母に、胃の出血を止めるための摘出手術であること、
手術後経過を見ながら、薬による治療を進めていくこと、
少々辛い治療になるなど説明を行なった。
母は、ただ「うん、うん」と素直にうなづくだけだったので、
私は確認した。

「お母さん、もしお母さんが胃を全部取るのが嫌だったら、
今日の手術止めてもいいんだよ。どうする?」

「徹底的にやるつもりできたから、先生よろしくお願いします。」と、
母は先生に頭を下げた。そして、手術と麻酔の承諾書に署名、押印して提出。

手術は2例目のはずだったが、1例目の手術がキャンセルになったため、
母の手術が繰り上がることとなった。急いで、妹ふたりに連絡した。
11:10、手術着に着替え、手術室に向かう。
11:30過ぎ、妹達は到着した。
手術前に母に会えなかったことを残念がっていた。そりゃそうだ。
朝からの母の様子を話してやった。

5月に父と母が仲人をした若夫婦が手術見舞いに来てくれた。
手術室はうちの親戚やら、父母の知人やらで、ごった返していた。

普通、胃の手術事体は4時間、麻酔をかけるのに1時間、
麻酔を覚ますのに1時間かかるらしいから、
6時間くらいの心積もりでいた。
しかし、手術室に入ったきり何の音沙汰もないから、
3時間くらいすると不安になってきた。
胃を開けてみて、全く手が付けられない状態だとしたら、
もう手術は終わってる頃だろうから、それがまだだってことは、
摘出が可能だってことだよねぇ…と妹達と祈るようにつぶやいた。

16:00母の主治医から手術の応援を頼まれた先生が、
手術室から出てきた。
「手術は終わりつつある、思ったより合併障害はなかった」と、
母が入院して以来、初めての良い知らせを聞き少しホッとした。

17:30主治医が出てきた。別室で、手術の経過について説明を受けた。
全摘出した母の胃を見せられた。私は、注射だとか、血だとか、ホラー映画だとかが、大の苦手だが、母の胃は直視することができた。
母の体内にあったものだからだろうか。

2ヶ所に大きな腫瘍があり、内部はほとんど潰瘍化されていて、
正常な部分はきれいなピンク色をしているそうだが、
母のそれは全体の2割程度しかなかった。

なんでこんなになるまで、普通でいられたんだろう…
と、不思議でならない。
きっと、痛かったはずだ。体調だって、悪かったはずだ。
物だって、食べられなかったはずだ。でも、食べていた。
入院するまでは、もりもりバクバク。
母の容体が悪くなったのは、検査入院してからだ。信じられないことに。。。


7月5日(木)


7月6日(金)


7月7日(土)

今日スペインから帰って来て初めて、9時過ぎまで寝た。すっきりした。
父とパンを食べて、弁当作って、洗濯物干して、
病院に出かける準備を整えた。
父の方が早く準備できたので、先に行ってもらった。

病院に着くと父は階段横のソファーで寝ていた。
ぐっすり寝ていたので、起こさずに母の病室へ向った。
すると母もぐっすり眠っていた。
病室から出て、父の寝ているソファーに腰を下ろすと、父が目を覚ました。

母が寝ている間に食事を済ませようと食堂に行った。
食事の後、外科の先生のプロフィールを少し見た。
その後、母の病室に再び行った。
私が母に付き添っていると、妹が入ってきた。
3人で話したり、汗を拭いたりしていたが、
その間父は隣のベッドのおばあちゃんの世話までやいていた。
なんのための観察室なんかねー。

 そうそう、母は今日歩いた。
午前中は看護婦さんに付き添ってもらってトイレに行き、
午後、孫会いたさで、廊下まで妹に付き添われて歩いてきた。
孫は、大好きなばぁばが点滴やいろんなものをぶらさげてるので、
おったまげてたようだったけど。

夕方5時頃、座薬が切れるらしく、母が痛がり出した。
「座薬を入れてもらおうか」と尋ねると、
「便が出そうだから、先に(ポータブル)トイレを持ってきてもらって」と母が言う。用を済ませ、再びベッドに入る。
寒気がすると言うので湯たんぽをもらいにいった。
座薬を入れるよう頼んだが、やはり15分待たされた。

座薬を入れた後、母がアイスノンが欲しいと言うので看護婦に頼んだら、寒気がしてるから湯たんぽを入れてるので、今は冷やさない方がいいと言われ、母は承諾する。ところが、頭はかなり熱かった。タオルを絞って母の頭にのせた。

看護婦はいつも最後まで母の話しを聞かない。
母が症状を訴えようとすると、母の話しの途中までで自分の考え、
あるいはこれまでの前例をこうだ!と言いきる。
最後まで患者の言い分を聞いた上で看護をしろよ!
話しを聞かずにこうだ!と決め付けないで欲しい。
症状はそれぞれなんだから。
現に母の症状は、寒気がするのに熱が39度近くもあると言うめちゃくちゃな状態なのだから…

本当に何度も思うけど、あなた達にとって、
うちの母はたくさんいる患者の一人に過ぎないんでしょうけど、
私達家族にとっては唯一のお母さんなんだから、もっと大切に看護してよ。そういう風に思えないのなら、何も無理して看護婦やらなくていいんだから。ほかの仕事に就けばいいこと。

今日家に帰って食事して、父のマッサージをした。
最初は遠慮してたけど、
父が風呂上りに腰をさすっていたのを見ていたから、
無理やりマッサージ。
腰のあたりが痛いと言うので、そこを中心にマッサージしたが、
途中指が疲れてきたので、背中全体を手でマッサージしたら、
結構凝ってる!腰だけじゃぁない!
肩も凝ってるし、背中もこわってるし。
お父さん、無理は禁物ですぜぃ!
月曜日はしっかり内科の先生に検査してもらいなさいね!


7月8日(日)

不安定な1日だった。
中央区のマンションのパンフをもらって、
夢タウンに母の前開きの下着を買って、
病院に着いたのは14:00頃。
母はベッドをかなり起こして座った状態で寝ていた。

ぐっすり寝ていたので、起こさずに席を外そうかと思っていたら、
看護婦が来て、「奥さん、血圧はかりますよ。」と声をかけた。
その声に目を覚まし、「え?」と言う母の顔を見た看護婦は
「あ!すみません。隣の方でした。あなたではありませんでした。
すみません。」彼女は悪気はないのだが、おっちょこちょいな性格だ。
と言うわけで母は目覚めてしまった。

「まだ寝てていいよ。私はここにいるから。」と言うと
母は小さくうなづいた。ベッドを倒して、体が休まるようにした。
少し母の息遣いが荒かった。母はトイレに行きたいと言った。
「気分が悪いんでしょ?無理しないほうがいいよ。ポータブルトイレ持ってきてもらおうよ。」と言うと、
「大丈夫、大丈夫。看護婦さんに血圧測ってもらってから行くから。
看護婦さんの言う通りにするから。」と弱弱しい声で言った。
看護婦さんを信じようとしている母が健気に思えた。
素直で可愛いと思った。

その後、母はますます息遣いが荒くなり、顔色も悪くなっていった。
トイレに行く事は断念しポータブルトイレで用を済ませ、
またベッドに横になる。苦しそうだ。

看護婦に言うと、心電図をとることになった。
主治医が来て、胸の下をエコーで見ていた。
水がたまってないか確認していた。さほどたまっていないとのことだった。

あまり同じ方ばかりを下にして寝ないほうがいいらしい。
母が先生に少し胸が重いことを告げると、
「熱が出てるので、動機のようなものを感じるんでしょう。
大丈夫ですから、あまり気にしすぎないほうがいいでしょう。」
と言われ少し安心したのか、母は目を閉じた。

 しばらくして熱が少し下がった。
すると母は、孫たちに会いたいから廊下まで歩いて行きたいと言い出した。熱がやっと下がったところだし、無理をしてはいけないと思い、
「車椅子持ってくるから…」と言うと、
「歩いて行かなくちゃ意味がないの」と言って聞かない。
体調のいいときはそうだけど、悪いときは無理して歩くのは良くないよと言っても、聞く母ではなかった。
手術前の説明で、「手術後はできるだけ動いたほうがいい」という主治医の言葉を守ろうとしているようだった。

仕方がないから、妹とふたりで付き添った。
観察室から廊下まで、私たちの手を借りながら、少しづつ歩く母。
孫たちの顔を見て、「もう、ここまで。」と自分で決めて、病室に戻った。それからまた少し寝た。

しかし、気分が悪そうだった。
だんだん口が開いて、うんうんうなりながら寝ていた。
また熱が出た。
母を楽にするために、もう1本輸血をすると主治医が言った。
16:00だった。

輸血をはじめて、母の唇に赤みがさした。少しほっとした。
しかし、あいかわらず息は荒い。
脈拍は130から140くらいを行ったり来たり。
血圧は最低血圧が23に落ちたかと思えば、
最高血圧が180を振りきる…と言う具合に非常に不安定だった。
素人がいちいち見ないほうがいいのかもしれない。
こっちの血圧も上がりそうだった。

18:00過ぎ、背中が痛いようなのでさすってあげた。
今朝11:00に座薬を入れたらしいので、母は我慢してるようだった。11:00に座薬を入れたことを看護婦に確認した上で、
母が痛がっているからそろそろ入れてもらえないか頼んだら、
先生に確認してくれると言った。

観察室に戻ると、母はやはり苦しそうだった。
座薬を入れてもらい、アイスノンを頭にのせた。
ふと手を握ると、熱が39度もあるのに冷たかった。
少し、震えているようだった。湯たんぽを持ってきてもらった。
背中をさすりつづけた。
19:30を回っていたので、看護婦に帰るよう言われた。

母の様子が落ち付かないので、父と廊下で待機していた。
21:00過ぎ頃、主治医が胸の針が熱の原因かもしれないので取ると言った。これで熱が下がらなければ、骨髄で癌のヤツが悪さをしている可能性があるかもしれないと言われた。

手術後1日目と2日目があまりに体調が良かったので忘れていたが、
術後1週間がひとつのヤマだと言われていたのだった。
ここを乗りきれば、きっと助かる!と自分に言い聞かせていた。



闘病(3週目)
Date: 2005-10-12 (Wed)

2001年6月25日(月)

仕事を一度18:00であがり、母を見舞う。
金曜日のバリウムがまだ少し残っているらしく、とても苦しそうだった。
下剤を飲んでも、出ないらしい。母は、日頃めちゃめちゃ快便なため、
「出ない」ことが相当辛そうだった。昼間は、レントゲンも撮ったらしい。
20:45ごろまで付き添って、仕事に戻った。
父をひとりで私の部屋に帰すのが辛かった。
ちくしょー、なんで仕事せないかんの。


2001年6月26日(火)

外科の先生からの話しがあるので、今日は会社を休んだ。
朝から父と病院に行った。今日の話しは母も一緒に聞くので、
あまり先生に質問しないようにと父に言われた。
下手に質問すると、母に聞かれたくない内容まで、
外科の先生が話さざるを得なくなってしまうから…
と内科の先生がアドバイスしてくれたそうだ。

しかし、外科の先生の話しは、
母に一切告知をしないという私達にとっては、
かなりヒヤヒヤするものだった。
「大元の胃から肝臓と骨に飛び火してますので、
大元の胃を切除しなければ、その後の薬の治療も行なえませんからね」
なんて言えば、胃から転移してると言ってるものじゃないか!

母はあまり体調が良くなかったので、
ベッドに横になったまま先生の話しを聞いていた。
私の座ってるところからは、母の顔は見えなかった。
例え見える場所だったとしても、見ることはできなかっただろうけど。

話しが終わって病室に戻った母は、少し疲れたのか目をつぶっていた。
眠っているのか?寝たふりなのか?
父はノート(直筆の入院日記)を持って、食堂に行った。
母とふたりになったが、母は私に何も聞かなかった。


2001年6月27日(水)

20:00過ぎに母を見舞った。父と病院の入り口で出会った。
少し母とおしゃべりして、プロポリスを飲ませて帰った。


2001年6月28日(木)

仕事が終わってからお見舞いに行った。

母は、今日の午後、外科に転科した。
なんだか、内科よりも病室がすごく暗いように感じた。
母の病室は6人部屋だが、3つベッドが空いていた。

ほかの患者さんはお互い話す様子もなかった。
ひとりは咳き込んでいたので、なんだか心配だった。
父にそのことを言ったら、「移るような病気の人は大部屋じゃなく一人部屋だろうから、心配しなくていい。」と言われた。
本当かな?私はあんまり病院を信じられなくなっていた。
そのうち先生に聞いてみよう。外科の先生が咳をするのも気になるし。

部屋が暗いせいか、内科の先生と離れたせいか、
母は少し元気がないように思えた。

どうやら、昨夜は太もものあたりが痛んだらしく、
痛み止めの座薬だけでは痛みが止まらず、皮下注射もしたらしい。
座薬は11時間程度もって来たのに、昨夜は5時間くらいで切れている。
それに先週、骨しんち(?)と言う、悪い骨を染める検査では
足の骨の転移は見られなかったと父が言っていたはずなのに。
この1週間で、足の骨まで転移してしまったのだろうか。

11日にここの病院に入院したとはいえ、
毎日検査ばかりで病気に対する治療は為されていないに等しい。
2週間半の間、癌細胞はのうのうと生き長らえてるわけだ。ムカツク。

脛の骨の周りが痛いと言うので、母がいいと言うまでマッサージをした。
筋肉はすっかりなくなり、マシュマロみたいな足だった。
骨もあんまり強く揉むと痛いんじゃないかという気がして、手加減して揉んだ。
「もっと力入れな、全然効かん。」って言って欲しかった。

座薬を持ってきてと言ったのに、
看護婦さんはなかなか来てくれなかった。
なんだか心配だ。母はなんでも我慢してしまうので、
看護婦さんがすぐに対応してくれないと、痛い時間が多くなってしまう。
様子を見て、お願いしよう。
お母さんが苦しむ時間が極力ないよう、しっかり働いてくれ。
お願いだから。


2001年6月29日(金)

今度の日曜と月曜で、茨城から従兄弟の兄さんが来福すると言うことで、
父の島帰省が急遽今日となった。
外科に転科したばかりだし、手術前の検査もあるし、
看護婦は信用できないので、私が会社を休んで母に付き添うことにした。

朝病院に行くと、母は比較的気分がよさそうだった。

「今朝、看護婦さんがシャワーを浴びませんかって言ったんだけど、
なんだか自信なくてね…でも、明日あなたが手伝ってくれるなら、
シャワー浴びてみようかな…」と母が言うので、
「そうだね。気分が良さそうだったら、そうしようよ。
ずっと体拭くだけだったから入りたいでしょ?まかしといて!
明日も朝9時頃までに来るから。」

そんな話しをしていたら、看護婦さんが迎えに来た。
「レントゲン撮りに行きますよぉ。」

レントゲン室に向う途中、
車椅子の振動がちょうど良い刺激になるからトイレに行きたくなったと
母が言った。
看護婦は、「レントゲンの検査すぐ終わりますから、
順番飛ばされちゃうといけないから、我慢できます?」と言った。
母は承諾した。ところが、レントゲン室まで行くと3人の順番待ちだと言う。だったら、トイレ間に合うねってことで、母をトイレに連れて行った。

トイレから戻ってきても、まだ順番待ちだった。全然、余裕だ。
15分くらい待たされたところで、
今日母はレントゲンの予約は入っていないと知らされる。
なんじゃ?そりゃ!

看護婦詰め所に今日レントゲン撮影はなかったと言いに行くと、
今度は心電図からお呼びがかかってると言われる。
そのまま、心電図の部屋へ向う。

ところがここでも、今日は予定がないと言われた。
ちょっと、ちょっと、ちょっとぉぉぉ!
さっきから、なんだってあっちこっちに連れまわしてるのよ!
今日は母の気分がいいから、まだいいようなものの、
病人を連れまわしておまけに間違いってどう言うことよ!
かなりトサカにきていた。

んで結局、肺機能の検査のみで、
その検査自体はものの10分とかからなかった。
検査が終わって母が病室に戻ったのは、
最初に病室を出てから50分近く経っていた。なんなのよっ!これ!!

11:00過ぎ頃、内科の先生がわざわざ母の顔を見に来てくれた。
母はちょうどベッドに体を起こしていたので、
先生は「とても気分が良さそうですね」とにっこり微笑んだ。
母も大好きな先生が来てくれたので喜んでいた。
20分ほどいろいろとお話しをして、先生は出ていった。「また来ます」と言って。

この日、母はとても気分が良さそうで、体を起こしたりしながら、
いろいろおしゃべりしていた。

15:00過ぎに看護婦さんが来て、来週の手術当日の説明を受けた。
今日から1日4回、うがいと鼻の消毒を行なうよう言われた。

母の機嫌が良かったので、携帯の解約をするために
19:00頃病院を出た。明日はシャワーね!


2001年6月30日(土)

朝9:15に病院に着いた、予定よりやや遅刻。
ちょうど、朝の回診中だった。
回診が終わったら、シャワー…と思っていたら、
なんだかお母さん、元気がない。

「調子わるいの?」と聞くと、昨夜トイレで倒れたらしい。
夕べ便秘で眠れず、下剤の座薬を入れた後もよおしたので、
トイレの個室の前までは看護婦に付き添ってもらい、
済んだらナースコールを押すように言われたらしい。

その後、用を足して看護婦を呼んだが、
なかなか来ないし気分も悪かったので、
出ようとしたら貧血で倒れたらしい。

看護婦が来るのを待たなかった自分も悪いからと言っていたが、
そうなんだろうか。もちろん、夜中だから人手が足りないのはわかるが。

その後、明け方まで心電図を取り、酸素マスクもしていたようで、
眠れなかったと言う。

で、そんなことがあったもんだから、
その後のトイレは、し尿便で尿を取ってもらったそうだが、
看護婦がうっかり取った尿をこぼしてしまったらしい。

で、何がヒドイかって言うと、おしっこをこぼしておきながら、
バスタオル1枚引いただけで、シーツを取り替えてくれなかったと言うのだ。
夏とは言え、濡れたままじゃ冷たかっただろうに。
何より、意識のある人間がおしっここぼされたままで、
いいわけない!!

 すぐ、婦長のところに行って、シーツを替えるように頼んだ。

個室だったら、他の患者さんに迷惑をかけずに、
付き添えるだけ付き添えるのになぁと思うのだが、
淋しがり屋の母がそれを許さなかった。

シーツを替えなかった看護婦は、挙句の果てに、
尿を取る管を体に通すよう勧めにきたらしい。
それだけは、母ははっきり断ったようだが。

 そんなこんなで、昨日はプロポリスを飲むことも、
うがいも、鼻の消毒も、何ひとつできなかったようだ。
もちろん、今日だって楽しみにしていたシャワーも浴びるどころではなかった。


2001年7月1日(日)

今日は、入院後、始めてシャワーを浴びた。
今日の担当の看護婦さんは、母も私も大好きな人だったので、
シャワーを手伝ってもらうことにした。

娘の私が!と張りきっていたのだが、
病気の母を手際良く洗ってやるのには、自信が無かった。
すばやく、さっさとやらないと、
シャワー中に母の気分が悪くなってしまうこともあるかもしれない。
でも、私がそばにいると安心だろうから、
看護婦さんのアシスタントをしよう。

その看護婦さんは、かなり手際良く母の髪をシャンプーし、
体を洗うのを助けてくれた。私は背中を流した。

母の背中は、ひとまわり以上、ちっちゃくなったような気がした。

病室に戻ると、母はとても爽快な顔をしていた。
そりゃそうだよねぇ、3週間ぶりだもんねぇ。よかったねぇ♪

髪を乾かしていると、見舞い客が訪れた。
この日は、母の友人が数人、茨城の従兄弟夫婦と、
ひっきりなしに見舞い客が現われ、大変な1日だった。
 
昼食を家族交代で取り、
見舞い客の間をぬって、うがいと鼻の消毒をしなくちゃだった。

いつも私が手伝うので、今日は妹がやりたいだろうと思い
彼女にやってもらった。私は後ろで見ていたのだが、そのときだった。

ガラガラとうがいをした水を洗面器に吐き出すときに、母がむせた。
洗面器は、赤黒く染まった。吐血だった。初めての吐血だった。

妹はびびっていた。可哀想なことをしてしまった。私がやればよかった。
そう言えば、母は朝から「血の匂いがする、昨日輸血したからかな」と言っていた。そのときには、気がつかなかった。
外科の副主治医の先生が、嘔吐止めの薬を点滴に追加した。

19:00頃まで、手術に必要なものを調達して回り、
手術後の監査室に持ちこめるものと持ちこめないものを仕分け、
19:25病室を出る。



闘病(2週目)
Date: 2005-10-06 (Thu)

2001年6月18日(月)

久しぶりの出勤。
スペインに旅行に行くことは、会社の人には言ってなかったので、
お土産がなくてもいい訳する必要はなかった。

ただ、母が入院中で、
その看病のため残業がしばらくできないことと、
明日火曜日に外科の先生の説明があるので、会社を休みたいことを社長に告げた。
癌とは言いたくなかった。

昼過ぎ、携帯が鳴った。
母のヘモグロビン値が7.0を切ったので、これから輸血をすると言う。
驚いた。怖かった。会社を早退し、病院へ向かう。
途中、プロポリスの先生に電話するが、留守電に切り替わったので、メッセージを残す。
病院に向かう途中、怖くて怖くて、心臓がどきどきした。お母さん、頑張れ!!

病室に着くと、父が輸血の同意書にサインするところだった。
福主治医の先生が輸血をしてくれた。母は大丈夫だった。


2001年6月19日(火)

会社を休んで、11:00から父とふたりで、外科の先生の話しを聞いた。
「助からない」としか言われなかった。今後の治療の方法は、3つある。
ひとつは、胃からの出血を止めるため胃の摘出手術をし、
経過がよかったら抗癌治療を始める。
しかし、胃の摘出手術は、抗癌治療を行なうための補助的な手術でしかなく、
命を救うための手術ではない。

2つめは、癌細胞を刺激する手術は行なわないで抗癌治療に入る。

3つめは、何も治療を行なわず、ホスピスで余生を送る。
自分たちの手には負えないので、治療の方法については、家族で選択しろと言う。

しかし、あくまでも、治らない病気だから、治ると誤解しないようにと再三釘を打たれた。
もちろん、告知もするように言われた。

プロポリス治療を進めて行こうと心に決めていたので、
どんなひどい話しも、取り乱すことなく聞き流せた。
15:00内科の先生と話しをした。これには、一番下の妹も同席した。
外科の先生の話しを踏まえた上で、母にどう説明するのか打ち合わせをした。

私達は、告知をせずに、外科の先生がいう「ひとつめの治療法」で進めることにした。
2つめの治療法は、胃からの出血が止まらない母には、無理な話だった。
3つめの治療法は、治療ではない。姥捨て山に捨てるような気がして、絶対に嫌だった。
末期癌と言うことは、絶対本人には告げず、転移という言葉も使わないようお願いした。

16:00カンファレンス室で、母への説明が行なわれた。
母の横顔は緊張していた。額には、生汗をかいていた。
タオルで拭いてやった。

母は、胃の出血を止めるための摘出手術を受けると言った。
「この際、徹底的にやります、そう覚悟して、この病院に来たんですから」…と言った。


2001年6月20日(水)

18:00に仕事を中断し、鏡を買いに行った。
化粧もしないで、ぼさぼさの髪のままでいるのが、いかにも病人くさくて嫌だから、
鏡を買ってきてくれと母が言ったからだ。会社の近くの雑貨屋で鏡を購入し、
病院へ見舞う。

母は、早速鏡を取り出して、自分の顔を覗きこんだ。
「あ〜〜〜。やだわ〜。このぼさぼさの髪。」
「しかたないやん。入院してるんだから。入院患者が、バリバリ綺麗にしとったら、それも変よ。」
「そうだけどさ、ちょっと眉くらいは描こう。」
「お母さんは美人だし歳より若く見えるから、化粧なんかせんでもいいよ。」
「そ〜ぉ?でもさ、やっぱり病人くさいから、ちょっとだけね。」
「ふふふ、ど〜ぞ。お好きなように。」

それから1時間ほど付き添って、また仕事に戻った。
今日、父は15:40の高速船で、島にまた戻った。


2001年6月21日(木)

今日は父のかわりに、真ん中の妹が母に付き添ってくれた。
昼過ぎに父から電話があり、母の点滴の薬の名前を知りたいから、
今日病院に行ったときにメモを取ってくるよう頼まれた。
18:15分頃病院に行くと、妹がまだ付き添ってくれていた。
ふたりの子供をお姑さんに預けてきているから、
もっと早く帰れば良かったのにと言うと、
「私だってもっとお母さんの看病がしたいのに、
子供がいるから思うように出来ないのが悔しい。
子供を預けて出てきた以上は、できることを精一杯やりたい。
姉ちゃんが来るまでは、私がそばにいたかったの。」
妹の気持ちが痛いほどよくわかった。
私だって、本当は仕事なんか行かずにずっと母のそばにいたかった。
でも、まだその時期じゃない、闘病生活はこれから長く続くんだから、
今から無理し過ぎたら誰かが参ってしまうから、
協力しながら頑張ろうねと妹を励ましながら、自分にも言い聞かせた。

妹と交代すると、母が私の顔を見るなり、
「毎日来なくてもいいよぉ〜。」と言った。
「いいじゃん、会社から近いんだし。それにお母さんのおかげで残業しなくて済むんだから(^^;)」
「あら、そうなの?じゃ、毎日来てもらおう。もう仕事はほどほどでいいわね。」
「うん、わかってますって!明日も仕事休んだから、検査は私が付き添うからね。
お父さんじゃなくて残念かもしれんけど!」と言ったら、母は照れ笑いをした。

家に帰ってから、昨夜義弟がメールで送ってくれた、
免疫力を高めるアラビノキシランに関する資料を、父宛てにFAXした。

義弟がインターネットで、アラビノキシランで奇跡的に癌細胞が消滅した体験記を見つけ、そのホームページの作成者とコンタクトを取ってくれたのだ。

その人のお父様は
「中咽頭癌(末期)+舌癌(末期)+リンパ節へ数カ所転移」と宣告され、
かなり悪性の癌であり、進行度合いは4段階中”4”で、
本当の「末期」と医者に匙を投げられたにもかかわらず、
アラビノキシランを飲み出してわずか3ヶ月で、癌細胞が消滅したらしい。

 私はその人のホームページを見て、
とにかく一刻も早く母にアラビノキシランを飲ませたかった。
早速、彼にメールを打ち、アラビノキシランの入手方法を教えてもらった。
妹に電話をして、医療補助向アラビノキシランの正規代理店にアポを取ってもらった。明日金曜日、18:00に約束が取れた。


2001年6月22日(金)

 8:30頃、病院に到着。朝の回診は終わっていた。

 今日の予定は、9:15くらいから、胃透視の検査。
胃の形をよく写すために、バリウム用の管1本、胃を膨らます空気用に1本、
合計2本の管を母の鼻に通した。とても痛々しかった。
検査は、40分くらいかかった。
母は、朝からとても機嫌が良かったのだが、検査で疲れたらしく、
昼頃までぐっすり眠った。昼過ぎからは、また元気になって、
大好きな副主治医の先生の話し方を自分で真似しては、自分で笑っていた。
全く、少女みたいな母だ。
おまけに、鏡を取り出して、眉を描き、口紅を塗ろうと言う気力も沸いたようだ。

 入院患者が口紅なんか塗ったら、顔色がわからなくなるから、
本当はいけないんだろうけど、ちょっと紅を塗っただけで、
にこにこと鏡を覗きこんでいる母を見たら、何も言えなかった。
むしろ、化粧をしようという元気が出たことがとても嬉しかった。

 13:00頃と17:00頃に、バリウム混じりの白い便が出た。
今日は、1日中、腹がゴロゴロするようだった。

 家に帰って父に電話をし、今日の検査の状況と母の様子を伝え、
医療補助向アラビノキシランの正規代理店アドバイザーとの話しの内容を、
父に聞いた。結論から言えば、アラビノキシランは小腸から体内に吸収しなくては、
効果が期待できないため、胃の出血を防ぐために固形物の摂取を禁じられている母には、今の段階では服用が困難だと言われたらしい。

 しかし、アラビノキシランは粉末であること、
母は液体の摂取はまだ可能であることからすれば、不可能ではないはず。
唾液は出てるし、小腸にたどり着くまでのところで、少々力不足を起こすとすれば、
胃の消化酵素くらいではないのか?
 父にもう一度、アドバイザーに連絡を取ってもらうことにした。


2001年6月23日(土)

 出かけようとしたら雨がじゃんじゃん降り出した。
今日は福岡の「アラビノキシランを使った治療をやっている病院」へ話しを聞きに行くことにしていた。
担当の先生に直接話しを聞いた。

 アラビノキシランは早期癌に効果があるだけで、
末期には効かないとはっきり言われた。
おまけにその医者は「どうせ死ぬんだから、新しい薬を試してみては?」
と言った。新薬は、60代の進行性で悪性度が強い癌に対しては、
効く可能性があるかもしれないからだと。

 「どうせ死ぬ」と彼は何度言っただろうか。「どうせ、死ぬ。」
新しい薬は10%の確率でしか効かない上、死のリスクを伴う。
そんなものを、母の命を救いたい一心でいる私に勧める医者なんてクソだ。

 更にその医者は私に説教を始めた。
最近の愚かな患者の家族は、医療の進歩を妨げるようなことばかり言う。
どうせ死ぬんだったら、医療の進歩に役立つことも大事だろう、と。

 その医者の言うことを認識はできた。でも、理解なんてできなかった。
私の命のことではないから、そんなふうには全く考えられなかった。
でも、私の母の命を「どうせ死ぬんだったら」と、
軽んじたような発言をする人の出世の道具になんかしたくはなかった。

 その医者は、更に続けた。「理解のない愚かな家族が、医療の進歩をとどまらせている。全く嘆かわしい。」
ふん、なんで、私がおまえの仕事の愚痴を聞かなならんねんっ!!
医療の進歩が遅れているのは、心無き治療をしている日々の自分の仕事の結果だろうがっ!!と言ってやりたいのをぐっと堪え、病院を出た。
彼は、自分の大切な人が「どうせ死ぬ」ような病気にかかっても、
「どうせ死ぬなら医療に進歩に役立つことも大事」と言うのだろうか・・・

 家に帰って来たら、どっと疲れが出た。
そういやー、スペインから帰って来て、まともに寝てないもんな。
ちょっと1時間、昼寝をして病院に行くことにした。
末の妹が車で迎えに来てくれたので、島での雑務を終え来福した父を、
埠頭でピックアップし、病院へ向かった。
昼間は、真ん中の妹夫婦が見舞いに来てくれたと母は喜んでいた。
今日も機嫌がいいようで、眉を描き、口紅をつけていた。

 家に帰ってから、父にアラビノキシランの正規代理店アドバイザーとの
その後の話しを聞いた。アドバイザーが「困難」と言ったのは、
今の母の液体摂取の状況では、唾液などの消化酵素がうまく働かないことと、
アラビノキシランがかなり高額なため、
効果があまり期待できそうにないのであれば、
様子を見て、もっとも効果がある時期に服用したほうが良いと言う考えだったらしい。

 しかし、父が一刻も早く飲ませたいことを訴えると、
「1週間分だけサンプルを送りましょう」と言ってくれたそうだ。
 とても良心的な代理店だった。(癌についても、かなりの知識があった)


2001年6月24日(日)

 今日は友達のウェディングだった。
出席の返事をしていた手前、行かざるを得なかった。
手作りのとてもいいお式だった。
友達と彼女のお母さんの幸せそうな笑顔がまぶしかった。

 私の結婚式は、母の命に間に合うのだろうか…と思うと、
泣けて泣けて仕方がなかった。

 彼女のお母さんに「ブーケもらいなさいね」って言われて嬉しかった。次は私!
本当にそうなればいいと心から思った。私のお母さんのために。



闘病(1週目)
Date: 2005-04-27 (Wed)

2001年6月16日(土)

 午前中、プロポリス治療の先生に話しを聞きに行って、
今後彼に相談しながら母の治療を進めて行くことにする。
父はその足で、プロポリスを持って母の病院へ向かった。
私は携帯電話が壊れたので、新しいのを購入してから病院へ行った。

 ヘモグロビン値がここのところ下がりつづけていると言うのに、
今日は採血がなされていない。土曜は休み?
その休みの間に、母の意識がなくなるようなことは無いのだろうか…
母の命に休日はない。命に差し障りのない他の患者と同じ扱いでは困る。
せめて一言、説明が欲しい。

 今日から、プロポリスを朝・昼・夜の3回、飲ませることにした。
父、最終のフェリーで1度自宅のある島に帰る。


2001年6月17日(日)

 母が福岡にマンションを買えというので、
朝、ちょっと下調べに行ってから、病院へ行った。
一番下の妹が来ていた。
義弟と真ん中の妹が広場で、子供達を見ていると言うので、
妹と交代するために広場へ行った。

 私はいつでも母の看病ができるが、
妹達は小さな子供を抱えているので、
いつでも看病できると言うわけではなかったから、
彼女らが来られるときは、私が子守りをして、
母との時間を作ってやりたかった。

 父は昨夜、島に帰って、月曜にまた来福する予定だったが、
母が「お父さんはいつ来るの?」と不安そうに妹に尋ねたそうなので、
妹が父に電話したところ、1日早めて今日の最終の高速船でやって来た。

 父が来たら来たで、母は
「あら〜。なんで来たの?明日じゃなかったの?」
と、強がって見せた。

 母にプロポリスを飲ませ、21:30に病室を出た。



プロポリス治療
Date: 2002-01-16 (Wed)

6月16日(土)

 朝起きて、母の病状を他の先生に相談しようと、
癌に効くプロポリスという本に記載されている病院に問い合わせの電話をした。
1件目、本人を連れてこないと何とも言えないと断られる。
2件目、末期癌には効果がないと断られる。
結構、気持ちがめげていた。
なーんだ、癌に効くとかって言うタイトルは過大広告なの?
3件目、ダメもとだぁ!と気持ちを奮い立たせて電話した。

 「末期癌で、手の施しようがないと言われたのですが、
プロポリス治療は効き目がありませんか。母は胃からの出血があるので、
そちらに連れて行くことはできないのですが。でも、母を助けたいのです。」

 「匙を投げられたんでしょう?
だったら、そんな方こそ、試してみるべきだと私は思いますがね。
娘さんですか、詳しいお話しを伺いましょう。」
嬉しかった。思いがけず、救いの言葉だった。

 最初、私はひとりでその病院に行くつもりだったが、
電話で話した印象から、その先生と話すと勇気が出るような気がしたので、
父も連れて行くことにした。

 母の病状を話すと、先生はできるだけ力になると言ってくれた。
ただ、転院をするとなると、そこは完全看護の大病院ではないので、
家族の誰かが付き添わなければならないから、
誰かが無理をしてまで今すぐ転院するのは、家族のためによくないと言った。

 いよいよ、今の病院にいられなくなってから、
つまり告知をしないで治療することに病院側が匙を投げたら、
そのときに転院して来ればいいと言う。
ただ、そのときは誰かが付きっきりで介護しなくちゃならないが…と言った。

 そして、それまでの間に、先生が母を診ることはどうとでもできると言う。
例えば、親戚だと言って、見舞い(往診)に行くことだってできるし、
プロポリスの服用だって、母の容体を診ながら指示ができると言う。

 「最善を尽くしましょう!僕の携帯も教えますから、いつでも電話してください。」

 父は、この言葉にホッとした様子だった。もちろん、私もだ。
なんせこの1週間、末期癌と知らされるわ、告知をしろと言われるわ、
ホスピスに入れろと言われるわ、全く癌という病気に対してど素人なのに、
「これからどういう方針で治療を進めて行きますか?」なんて、
今の病院の先生は聞きやがる。

 つまり末期癌で助かる見込みがないから、
これからのことは家族で決めろって言うわけだ。

 だから、医者としての知識があるこの先生が、
「何でも相談に乗る」と言ってくれたことはすごく有り難かった。

 最後にその先生が言った。
「お父さん、顔が暗いですよ。お気持ちはわかりますが、
そんな顔してたら、奥様の病気に差し障りますよ。」と。

 久しぶりに父が笑った。



容体
Date: 2002-01-15 (Tue)

 2001年6月13日(水)部屋は、
土曜日の朝ドタバタと出かけた様子が残っていた。
違ったのは、窓に父のジャケットがかけてあったことだけだった。

 さてと。。。部屋に帰ってきたものの、携帯番号がわからないから、
私の帰国を知らせるには、母が入院している病院へ電話するしかないな、
と考えていたら、玄関の鍵がガチャガチャと開いた。父だった。

 「は、早かったな。従姉妹の姉ちゃんが、チケットがすぐに取れるかどうか
わからないから、帰国は早くても3日後くらいになるって言ってたから、
そんなにかかるんかと気をもんでいたもんで。驚いた。」

 「ごめん、ごめん。大阪から電話しようと思ったんだけど、
携帯が遂にぶち壊れて連絡できんかったっちゃん。今、帰り着いたところで、
病院に電話しようと思ってたとよ。」

 「すまんかったな、せっかく楽しんでるところを帰国させて。」

 「そういう約束やったやん。スペインなんて、
またいつでも行けるから、気にせんで。お母さんの方が大事やし。」

 父は妹達と病院に行って、これから一番下の妹の家に行くために、
うちに荷物を取りに寄ったのだと言う。車の中で待っている妹達を呼んで、
私の部屋でこれまでの母の病気の経過を話してもらった。

 母の病名は、癌だと言う。それもかなり悪性の。信じられなかった。
火曜日に胃カメラを撮ったけれど、月曜の夜から食事をしていないにもかかわらず、
母の胃には消化しきれていない食物が残っていて、完全な影像が撮れなかったらしい。
金曜日に再度、胃カメラ撮影をすることになっているが、
今の段階から予測できることは、母の腰痛は癌に起因するもので、
肝臓に膿がたまっているだけではないと主治医に言われたそうだ。

 おまけに、血液濃度を示すヘモグロビンの数値が異常に低く、
正常な人だと12.0〜16.0の値を示すところだが、
母の場合は月曜の検査結果で7.8g/dlしかなかった。
これがどうことを意味するのか、素人には全くわからない。
父によれば、この値が7.0を切ると意識がなくなる可能性があるから、
輸血が必要になると主治医に言われたらしい。

 信じられなかった。
家族中で一番元気で、明るくて、人一倍健康に気を遣っていた母が癌?
それも悪性?もって、半年か1年だろうって?

 父の話しを聞きながら、娘3人涙が止まらなかった。
どうしたらよいか、全くわからない。
しかしながら、病気に対する無知さゆえの希望はあった。
家族全員で、お母さんを助けようね。
泣きながら、母を抜いた4人の家族会議を終えた。

 家族全員が寝るにはうちでは狭いので、一番下の妹の家に寝泊りすることにした。
スペインからの荷物を部屋に放り投げたまま、
N氏から戴いた母への油絵を持って、妹の家に向かった。

 翌日6月14日(木)、母の顔を見たいのは山々だったのだが、
母の病状が落ち着いていることと、スペインから2日で帰って来たことを
どう母に説明したら良いかがわからなかったので、今日は病院に行かないことにした。
父も月曜からつきっきりで看護をしていて疲れているだろうということで、
この日は一番下の妹が母に付き添うことになった。

 私は父とふたり、甥っ子を預かった。

 そして、6月15日金曜日の朝、初めて母を見舞った。

 「おはよう、お母さん。なんだかさぁ、お父さんが心配で、
ちょっと早く(スペインから)帰ってきちゃった。」

 「あら〜。。。
そうなのよねぇ!お父さんさぁ、どっちが病人かわからないよね。
神妙な顔しちゃってねぇ!どうにかならないのかしらねぇ、あの顔。」

 そう言ってふたりで笑った。思ったより元気そうで安心した。

 8:20検査室へ。火曜日にうまく胃カメラが撮れず、相当苦しかったらしく、
母は今日の検査も緊張していた。手に汗を握っていたのがわかった。
頑張れ、お母さん。

 9:35頃、病室へ戻ってきた。胃カメラ撮影は、40分くらいかかったが、
今日は比較的調子よくできたようで、母はホッとしている様子だった。

 昼過ぎに今日の検査を聞く予定だったが、先生の都合で夕方になった。
父とふたりで、話しを聞いた。

 主治医の話しは、無知な私の希望を一気に粉々にするものだった。
母の病状について、ある程度の話しは父から聞いていたものの、
実際に主治医から聞くと、かなりのショックを受けた。

 「末期癌」と宣告された。余命半年。
胃の上湾曲部に腫瘍が2ヶ所あり、胃内部壁に潰瘍が見られる。
健康な胃の表面はきれいなピンク色なんだそうだが、
母の場合は胃の内部がほとんど真っ赤っかで、
つまり胃からかなりの出血をしているので、貧血状態にあると言う。
この状況からして、癌は胃から発生し、肝臓、更に背骨へ転移していると言われた。

 外科の先生にも検査結果を診てもらったが、所見は同じらしく、
手の施しようがない。病気が治る治療や手術をすることは、
もはやできない状態なので、本人に告知をして、
余生を本人らしく過ごせるようホスピスに入れてはどうかと勧められた。

 父は、かなりのダメージを受けているようだった。
私だってそうだったが、このまま黙って主治医の話しを聞いてるわけにはいかなかった。

 告知しろだって?
何の希望もない、良くなる治療をすることができない母に、
「あなたは癌で、助かりません。辛い治療を選びますか?
それとも余生を思うように過ごしたいですか?」と言えと言う。

 私だったら…と考えた。
もし、私だったら、少しでも助かる可能性があるのだったら、告知して欲しい。
でも、助かる可能性がないってことを知りたくはない。
そんなことを知ってしまったら、ただ辛いだけだ。
それこそ、生きる望みなんて、持てるわけがない。頑張れるわけがない。

 主治医は言った。「告知は家族の問題ですから、
みなさんでよく話し合ってください。私はみなさんの考えに従います。
ただ、外科が言うには、手術も含めて治療を進めるならかなり辛い治療になるので、
告知しないまま治療を進めることはかなり難しいとのことです。」

 なんだか、頭が破裂しそうだった。
母の病気のことも。告知のことも。

 妹の家に戻って、妹ふたりと義理の弟に主治医の話しを伝えた。
ふたりとも、わんわん泣き出した。義弟は怒りをあらわにしながらも、
懸命に私達を励ましてくれた。

 「絶対に助かる方法はあるって!諦めたらいかんって!
なんかで見たよ。癌が治るっての。俺、ちょっと本屋に行ってくる。」

 そう言って、夜の11時過ぎに義弟は飛び出して行った。
でも、私達は、ただ泣くばかりだった。父も途方に暮れていた。

 12時を過ぎた頃、義弟がやっと帰ってきた。
手には4〜5冊の本を抱えていた。
「名医が勧める癌に効くプロポリス」「これで癌が治った」「アガリスクで癌が治る」
などなど。

 「可能性が少しでもあるなら、何でもやってみようよ。
俺達でお母さんを助けようよ。絶対、大丈夫だよ。」

 私達はそれぞれ本を手にし、ざーっと流し読みをした。
しばらくして、父が「末期癌に効きそうな話しはのっとらんな。」
と言って、寝室に行ってしまった。

 それでも私達は「ちょっとそっちの本も見せて!」と言いながら、
深夜、本を読みふけった。

 真ん中の妹がボソッと言った。
「他の先生に診てもらっても、助からないって言われるのかな?」

 そうよねぇ。助けることができる先生だっているかもしれない。
もっといろいろ調べてみようよ。

 「じゃぁ、この本に載ってる先生に電話してみる。」と私。
 「そーやね、姉ちゃんの方がお母さんの病状を説明できるから、お願いね。」と妹。
 「お父さん、どうする?」
 「うーん。あんまり気乗りしてないみたいだし、とりあえずは、私が話しを聞いてからでもいいかも。」
 「そうやね、そうやね。」
 「俺も、実家に電話して、いい先生知ってたら紹介してもらう。」
 「じゃぁ、私も旦那に電話して、インターネットでもっと調べてもらう。」
 「うん、頼むね。」

 私達4人の眼に、涙はなかった。
お母さんを助けよう、そしてお父さんを支えよう。
そう、約束して床に就いた。



緊急帰国
Date: 2001-12-28 (Fri)

2001年6月12日(火) MADRID晴れ

 8時に起きた。昨夜の vino tint(赤ワイン)が残っている。
N氏が、私宛てのFAXが届いていると言った。
従姉妹の姉ちゃんからだった。

 「あんへ
お母さんは今すぐどうこうって訳じゃないから、
落ち着いて帰ってきなさいね。あなたが帰ってくるまでは、
お母さん大丈夫だから。
N氏は、あなたの帰国を助けてくれるはずだから、
とにかく慌てないで無事に帰ってきな!」

 ほっとした。
「今すぐどうこうって訳じゃない」って言葉が、
私に落ち着きを与えた。

 まずはアルコールを抜くために、熱めのシャワーを浴びた。
気持ちがしゃん!とした。そして、旅行社へ行った。
事情を説明して、帰りの航空券をなんとかしてもらうよう頼むために。
私としては、今日の便がとれさえすれば、それにかかる費用はどうでもよかった。
だいたい、スペインからの呼び寄せで購入した航空券だったから、
日程の変更なんてできるはずがなかった。

 「16日帰国予定を変更ですか?理由次第ではJALに交渉してみます。」
と旅行社の人が言う。

 母の急病を告げると、JALは変更を認めてくれた。
つまり、16日のチケットを12日の同じ時間で日程変更してくれるというのだ。
ただ、MADRID〜PARIS間の航空券は、買いなおさなくちゃいけなかった。
AIR FRANCEの16日の航空券は、ドブに捨てることに。
買いなおしの航空券は、すんごい高かった。
MADRID〜JAPAN往復航空券が¥110,000ちょいくらいだったのに、
MADRID〜PARISは片道¥45,000もするって言う。

 「とにかく早く帰りたいから、少しでも早く帰れるなから、いくらでもいいです。」
と言うと、「でも、もうちょっと探してみます。」と言って待たされた。

 今日の今日じゃあ、安い航空券なんてそうそう手配できないだろうと、
あまり期待してなかったが、AIR EUROPA UX 1023便、
28,914ペセタってのを見つけてくれた。日本円にして、¥17,000くらい。
ラッキーだった。手数料25,000ペセタで日本へ帰れる。

 MADRID空港13:30出発だったから、
すぐに家に戻って、荷物をまとめなくちゃだった。10:20だった。

 友達に電話して、母の急病でこれから帰国することを伝え、
N氏がどうしても外せない仕事があって空港まで送ってもらえないため、
これから空港まで連れて行ってくれないかとお願いした。
彼女の今日の予定は、10:00からスタジオを借りての個人レッスン(フラメンコの)、
13:00からは、私がスペインに着いた日の晩、
一緒にタブラオを見に行ったベレン先生のレッスンを受ける予定だった。

 申し訳ないと思いながらも、私の赤子以下のスペイン語じゃ、
限られた時間内に、到底ひとりで空港まで行けそうにない。

 ごめんねぇ(´□`;)。全ての予定を台無しにして。
友達は、笑顔で私を迎えに来てくれた。すごい嬉しかった。

 突然の帰国で、最後もうひとりの友達には会えず(彼女は風邪をこじらしていた)、
私が初めてフラメンコを習ったスペイン人講師のペパにも、ペパのママにも会えず、
去年の発表会曲のアレグリアスを教えてくれたシルビアにも会えず、
そしてそして、今週末には合流するはずだったロスピンチョス
(私の福岡での行き付けのスペイン料理店)のみんなにも会えず、
フラメンコのレッスンも受けれず、
フラメンコの靴も買えず、
お土産も買えず、
いっぱい、いっぱい、心残りがあるけど、
でもこんなに心残りがあるから、きっとまた来れるよ。
絶対来るよ。
思ったより、SPAIN近いし(^^)。

 次は、スペイン語ペラペラで、そんで、両親連れて来るぞ。

 AIR EUROPA UX 1023に乗った。13:30発なのに、なかなか離陸しない。
もう予定から1時間たとうとしている。。。ウソやろー?!
結局14:30頃、やっと離陸した。1時間遅れ。大丈夫かいな。
PARISで荷物とって、connectingしなくちゃいけないのに、間に合うとかいな?

 スチュワーデスのお姉さんに、何時にPARISに着くのか聞いたけど、
「今わからないから、後でね。」と言ったきり返答はなかった。ま・じーっ?

 15:40着予定のところ、1時間出発が遅れたにもかかわらず、
30分遅れの16:10PARIS到着。

 さあさあ、荷物をpick upしなくちゃだった。34番に突進して行ったら、
そこは出口だった。あれれ?と思って、犬を連れた警備?
いや、警察官のお兄さんに聞いた。

 「どこで荷物拾えばいいのーぉ?」
 「ここは出口だから、もう1回モニターをちゃんと見て。」

 実は24番だった。「24番はあそこのレーンだよ!」
フランスなまりの英語だった。

 24番で待つこと10分。やばいなー。MADRIDで時間が無かったから、
PARISの税関で免税の手続きをするつもりだった。
単品で15,001ペセタ以上の買い物をした場合、13%の税金が免除されるのだった。
衣装を3着買ったから、かなりの額が戻ってくるはずだった。
が、時間がない。

 証拠品の衣装も見せろと言われたらいけないので、
1着だけは手荷物にしといたのに。。。あきらめるか。。。

 やっと、荷物を送り出すベルトが動き出した。
それから更に10分後。やっと、やっと、私のスーツケースが出てきた。

 よっしゃー!乗り換えだー!Check inだぁー!!

 でも、これからどこへ行けばいいの???

 旅行社でもらったメモには、
「PARIS CHARLES DE GAU TERMINAL-1」と書いてあった。

 手荷物預かり所のお姉さんに「TERMINAL-1はどこか?」と聞くと、
「ここよ。」と言う。

 「乗り継ぎたいんだけど、どこへ行けばいい?」
 「DEPARTUREへ行きなさい。」
 「DEPARTUREはどこ?」
 「34番を出て、リフトに乗りなさい。」
 「Thank you very much!」
34番を出た。リフトってどこ?わからん。。。

 今度は案内所のお兄さんに聞いた。
「TERMINAL-1のDEPARTUREに行きたいけど、どこ?」
「36番にリフトがあるから、5番のリフトで3階に行けば、
そこがDEPARTUREだよ。」

 「5番のリフト?3階???」(どーも、会話に数字が出てくると緊張する)
「大丈夫、難しくないよ、you can!」

 ひゃー、いい男だ。こう言う時に「you can!」って言われると、
すごく勇気付けられる。

 彼の言った通りにリフトに乗って3階で降りると、
そこはDEPARTUREだった、TERMINAL-1の。
重いスーツケースをごろごろ転がして、左肩には1着の衣装を抱え、
TERMINAL-1を端から端まで見て回った。

 ないっ、ないっ!!JALのカウンターがないっ!
背筋がぞぉーっとした。

 AIR FRANCEの受付のお姉さんに聞いた。
「JALのカウンターはどこですか?」
「JAL?うーんと、わからないから、あそこの案内所で聞いて!」
「Merci beaucoup!」久しぶりのフランス語。(実は仏文科卒)
でも、これくらいしか言えんけど。
あ〜〜〜っ、時間がないっ!

 ANAのカウンター発見!あそこにいるのは日本人?中国人?
「Could you tell me where Japan Air Line is?」とりあえず英語で話しかけた。
「こちらは全日空のカウンターですので、日本航空はTERMINAL-2になります。」

 ほっ!日本人だった。よかった、よかった。
えぇぇぇぇぇっ?!「たーみなる・つぅ」だぁ?!
血眼になって探したって見つからんはずやん。。。

 ANAの日本人男性は、とても丁寧な日本語でTERMINAL-2までの行き方を教えてくれた。あー、ありがとう。あなたのおかげでやっとJALの場所がわかりました。
でも、間に合うんかいな。こんなところで、乗り損なうわけにはいかないのよ。
仏文卒とは言っても、フランス語なんてもうすっかりさっぱり忘れちゃってるし、
何が何でも今日PARISを飛び立たなくちゃなんだから!

 スーツケースをばりばり転がして、またリフトまで行った。
リフトが閉まりかけたところを無理やり乗りこんだら、
ハイジのアルムおんじみたいな髭を生やしたムッシューが、
私のスーツケースをぐいっと引き入れてくれた。

 深呼吸してゆっくり言った。「Merci beaucoup!」
完璧な発音だった。と思う。アルムおんじはにっこり微笑んだ。
私もにっこり笑った。

 リフトを降りると、右前方にバス停があった。
待つこと3分。いやに長く感じた。
あー、17:00回ってるよぉ。18:00の便、乗れるとかいな?
冷や汗、たらり。。。

 バスが来た。運転手に聞いた。
「TERMINAL-2-Fに行く?」
「行くよ。」

 よぉーっし!乗りぃぃぃだ!
もう間違うことは許されなかった。旅の恥は掻き捨て!と自分に言い聞かせながら、バスが止まる度に運転手に聞いた。「ここは2-F?」

 でも、やっぱり何度も聞くのは恥ずかしい。次は車内放送を注意深く聞いた。
2-A、2-Bらしい。そして、次は2-Fだった。ヨシヨシ(^^)
バスが止まった。運転手さんに満面の笑顔で「Merci beaucoup!」と言った。
そしたら、「Bon voyage!」と言ってくれた。最高に嬉しかった。

 さぁー、Check inだぁ!!17:15だった。
搭乗手続きは17:25が最終だった。ひぇ〜〜〜!危機一発!

 こんなんもありなんやねぇ。
やっと、ほっとした。
これでちゃんと帰れる。
ぬるくなったミネラル・ウォーターを一気に飲み干したら、
なんだか泣けてきた。よかった。帰れる。

 行きはさぁ、到着も出発もTERMINAL-2だったからすんなりだったけど、
帰りは苦労したぜぃ!なんせPARIS空港、迷ってみてわかったけど、
福岡空港の5倍、いや、もっとそれ以上デカイ!危うく、乗り損なうところだった。
何人の人に助けられたろう。
皆様、ありがとう。

 PARIS空港の47gateで手荷物検査を受け、gateを通過したら、
そこにいたムッシューが(検査官なんだけど)
「Bonjour! びじゅーん、びじゅーん。Kiss me,please」
と言ってきた。あはは、変な検査官。びじゅん、びじゅんってのは、
美人、美人って意味らしい。(私の勘違いではないぞ!)
他の検査官が、ひやかしてピーピー言ってた。

 私はやっと搭乗できそうで嬉しかったから、
彼の右ほほにちゅーしてあげた。
「Merci beaucoup, bon voyage!」とムッシューは言った。

 47gateのboardingが始まり、バスでJALの飛行機へ。。。

 あーっ、My rage登録するの忘れたぁー!
げげげだぁ。あぁ、やっぱりどっかマヌケだ。私って。

 関西国際空港には、予定通り6月13日の13:00に着いた。
荷物をpick upしに行ったら、なんとなんと!
行きに破れたスーツケースが、またさらに破れてるじゃないか!

 ま、日本に帰ってきたから、もういいけどね。
それにしてもすごかった。ばりばりっと裂けていた。
とりあえず、クレームを申し立て、
その後、父に電話しようと思って、スーツケースの中から携帯を取り出した。
すると、携帯がすっかりイカレテいた。電源が全く入らない。

 げっ、福岡に到着するまで、連絡できんやん。
携帯を持つようになって、電話番号をアドレス帖に控えるなんてことしなくなったから、こういう時まさに陸の孤島状態になってしまう。
誰の電話番号も覚えていない。
とりあえず、自分のマンションに電話した。
留守電に、父宛てのメッセージを残した。

 がっかりした私に、更に追い討ちをかける事態が起きた。

 スーツケースが閉まらない!!
そう、破れた衝撃のせいか、スーツケースがうまく閉まらないのだ。
汗だくになりながら、もう半べそ状態で、私の全体重をかけてもしまりゃーせん。

 関空〜福岡間はANAの便を取ったので、ANAのカウンターに行って、
スーツケースをガムテープでぐるぐる巻きにしてもらった。
傷だらけのスーツケース、なんだか私の旅そのものみたいで笑えた。

 そして、日本時間の6月13日17:30。
やっと福岡のマンションに帰り着いた。



父からの電話
Date: 2001-12-27 (Thu)

 海老を食べながら、その電話はきっと私宛てだと確信していた。

 N氏が私に携帯を差し出した。従姉妹の姉ちゃんからだった。
「パパちゃんがね、あんの声を聞きたがってるから電話してあげて。」
と言う。
「お母さん、悪いの?」
「パパはね、ママのこととなると気弱になっちゃうからね、あんの声が聞きたいのよ。だから、今電話してみて。」

 ここで、話せるような内容ではないはず。早く家に帰って、電話しよう。
と思った瞬間、またN氏の携帯が鳴った。父からだった。

 「昨日な、お母さん予定通り検査したけど、朝から夕方までかかってな。
胃カメラを撮ったけど、食物が残り過ぎてて
もう一度撮りなおさなくちゃいかんのだが。。。
背中に転移しててな。主治医の先生が、お母さんの血中酸素が少な過ぎて、
いつ意識がなくなるかわからないから、子供達を呼び寄せるように言われた。
楽しんでいるところ申し訳ないが、すぐ帰って来てくれんか。」

 そう言って、父は泣き崩れた。
気丈な父が、声を出して泣いている。何?何なの?

 「わかった。お父さん、明日すぐ帰るから待ってて。
大丈夫、大丈夫よ。私が帰れば大丈夫だから。
私が帰るまで、お父さんしっかりね!」
父は、母の病名を言わなかった。私も聞かなかった。聞けなかった。
でも、転移って。

 スペインへ出発する3日前の水曜日のことだった。
父が仕事中に電話をしてきた。

 「お母さんな、おかしいとよ。先月から腰が痛いって通院してたけど、
全然よくならんし、5月の下旬はひとりで起きれない日が続いてな。
別の病院に連れて行ってな。明日、その病院で検査するけど、
しまったーってお父さん思ってる。」

 「どういうこと?ヘルニアじゃなかったん?」

 「ただの腰痛じゃないと思う。でも、お母さんには言ってないから、おまえも黙って欲しいんやけど。」

 嫌な感じだった。父の予感は当たる。
一番下の妹が3歳のときに水腎症になったときも、
一緒にお風呂に入っていた父が、妹の体の異変に気づいたのだった。

 「とりあえず、明日の検査結果を待ってからじゃないと、
何とも言えんのだが、おまえにはちょっと話しとこうと思ってな。
いいか、お母さんには何も言うなよ。でも、後で電話して話ししてやってくれ。」

 仕事を終えて、母に電話をかけた。
5月の連休に、一番下の妹の子供の初節句で福岡に来た時以来だ。
そのときも腰が痛いと言っていたので、お節句の会が済んだら、
福岡の病院で診てもらってから帰るように話しをしていたにもかかわらず、
「父の部下の仲人を5月下旬に控えていて忙しいから、
今回は病院には行かずに帰ります」と私の家の留守電にメッセージを残して帰った母だった。

 「だからあのとき病院で診てもらっとけば良かったのにぃ」と言うと、
「そうやね、ごめんね。明日の検査はちゃんと受けるから。」
なんてのんきなことを言っていた。思ったより元気そうだったので、少し安心したが、
父の心配ぶりが異常だったので、やはり胸騒ぎがした。

 翌日の木曜日、検査結果を父に尋ねると、やはりただの腰痛ではなく、
肝臓に膿がたまっていると言われたらしい。手術をする可能性もあるから、
月曜日に福岡の病院に検査入院をすることに決めたと言う。

 検査入院と言っても、手術をする可能性があるとなれば、
私は旅行なんかに行ってる場合じゃないと思った。
明後日土曜日からスペインに1週間行くことにしていたが、
取りやめようと思うと父に告げると、
「いや…もしおまえがスペイン行きを取りやめたら、
お母さんが自分はそんなに悪いのかって変に思うだろうから、
行くのは行って来い。ただ、いつどこにいるのかっていう日程を詳しく教えてくれ。
できれば、常に連絡が取れるようにしておいて欲しい。」

 病気のお母さん置いて、何も今行かなくてもいいんだから、
取りやめると言い張る私に、
父は「お母さんの病気は長引くと思うから、行くのなら今行って来い。」
と引かなかった。

 何かあったら、絶対すぐに連絡をくれると言う約束のもと、
私はスペインにやって来たのだった。

 そして、その何かが起きた。

 電話を切ったら、涙があふれてきた。
今も、この時間も、母は苦しんでいるのだろうか。
まだ、意識はちゃんとあるのだろうか。
私が移動中に、もしも…なんてことがあるんだろうか。
父と話していたときは、自分でも驚くほどしっかりしていたが、
電話を切ったとたん不安が押し寄せてきた。

 スペインのパエジャは、涙味だった。

 それから、N氏と家に戻り、明日の行動予定を整理した。
朝一番、旅行社に行って、帰国便の手配をしてもらう。
「チケットは絶対俺がなんとかするから。大丈夫だから。」
強い味方がいて、心は救われていた。
N氏はどうしても外せない仕事があるから、
空港までは友達に無理言って送ってもらおう。
もちろん、チケットが取れればの話しだが。

 そして、N氏はMADRID最後の夜は酒盛りだ!
と言って、高そうなワインを開けてくれた。
泣きながら、笑いながら、ふたりで飲んだ。

 お土産をまだ何も買っていない私に、
母へのお土産と言って、スペインの風景画を3枚もくれた。
素適な油絵で、きっと母も喜ぶに違いない。ありがたかった。

 無茶苦茶飲んだ。母が病気だって言うのに、不謹慎な…と思いながらも、
飲まなきゃ、眠れそうになかった。

 ワインで相当ふらついた頭を枕に降ろすと、また涙がこぼれてきた。
子供のように泣きじゃくる自分を抑えようが無く、
N氏にこれ以上心配かけたくなかったので、
声を押し殺そうとするけれど、どうしてももれてしまう声が恨めしかった。

 そして、気づくと朝だった。



スペイン日記その3「衣装を買う」
Date: 2001-12-25 (Tue)

2001年6月11日(月) SEVILLA晴れ

 さてさて、今日は「今年の発表会用の衣装を買う」という、
SEVILLAでの最大の目的を果たさなければならない。

 スペインではシエスタと言う長いお昼休みがあるから、
だいたい14:00から17:00くらいまでは、
デパート以外の店は閉められてしまう。
よって、衣装を買うための時間は10:00から14:00までと、
17:00から18:00の時間(19:00の新幹線でMADRIDに戻るため)
合計たったの5時間しかなかった。

 はっきり言って、心配だった。
だって、去年東京で1着の衣装を買うために3日もかかった私だ。
お店の場所を事前に調べて、3日もかかったのに、
全く地理のわからない私が、たった5時間で満足の行く買い物ができるんだろうか。。。

 やるしかない。
朝食のサンドイッチを食べながら、武者震いをした。

 10:00にHOTELをチェックアウト。
昨夜タブラオの帰りに見かけた衣装屋さんを目指す。
その途中、アバニコ(スペインの扇)とマントン(ショール:体に巻きつけて
衣装にしたり、踊りで使ったりする)の専門店があった。

 時間がないから、これ!と思った店はそのとき行くしかない。
でも、結局衣装の色が決まってない私には、マントンを選ぶ基準が全く無く、
そこではお土産のアバニコと自分用のパリージョ(カスタネット)しか買えなかった。

 早々にその店を出て、衣装屋へ走った。
昨夜、ショーウィンドウ越しに見た衣装を試着。
めっちゃ可愛い!!

 でも、今年の発表会の踊りは「悲しみ」の踊りなので、
白地に赤の水玉なんて、絶対合わない。でも、欲しい。
日本じゃ、絶対ないデザインだった。
赤の水玉って、フラメンコじゃ結構定番の柄ってことで、
昨日の夜から気になってた衣装だったし、これは買うことにした。
N氏の「日本で衣装買うとしたら、この倍以上の値段はするんだろ?
だったら、気に入ったやつは買っとけ!日本に帰ってから、
やっぱりあれ送ってくださいって言われたって、そんなこと不可能だからな!」
って言葉に、そうだ!2着買ったってバチは当たんない!!
と理由付けがしっかりできてしまったからだ。
早速、サイズのお直しにとりかかってもらった。
17:00には出来上がると言う。

 もう1着試着。これはアンダルシアの蒼い蒼い空の色。
発表会用にはイケル。でも、今年の踊りには藤色の衣装が欲しかった。

 他の店も行く!!

 とりあえずデパート街の方へ向かった。
2〜3の店に飛びこんだが、私が思うような衣装はない。

 もう12:00になろうとしていた。ぎえ〜〜〜。
あと3時間しかない。。。N氏はツアーコンダクターだが、
観光地の案内には慣れていても、
衣装の店となると「あのへんにあったかなぁ」ってな具合だから、
とにかく走りまわって目に付いた店に飛びこむしかなかった。

 そして6件目の店で、またまたメチャメチャ可愛い衣装に遭遇!
白地に赤、オレンジの花柄。顔写りもかなりいい。
でも、今年の踊りには絶対着られそうもない。でも、すんごい可愛い。
N氏も、この衣装が気に入ったらしい。
しきりに「これも買えば!」と私の決断を促した。

 でも、発表会用にはならないよぉぉぉ!

 結局、藤色の衣装は全く見つからず、
メチャメチャ迷ったまま、14:00になった。シエスタだ。
無情にも店が閉まる。げ〜〜〜っ、どうしよう。。。
ま、3時間のシエスタの間に、心を落ち着けて考えよう。

 考えるためには、腹ごしらえが必要だった。
SEVILLAの街を4時間走りまわったわけだから、
超ハラペコだった。

 N氏に連れられて入った店は、地元の人達が多い店だった。
おぉ!こりゃ、かなり期待できそうだぞ。
N氏の言う「うまい生ハム」は本当に舌がとろけそうだった♪
ワインとハムだけでいいっっっ!って気分だった。
ガスパチョと言うトマトの冷製スープも最高にうまかった。
トマトの酸味とミキサーにかけられたにんにくと野菜のつぶつぶが、
喉と舌にうまくからみついてきて、幸せだった。
スープって温かくなければスープじゃない!と言う私の持論は、
あっけなく覆された。

 腹ごしらえが済んだところで、CDショップへ向かった。
日本で買えないCD買わなくちゃね!!
日本ではたった1枚のCD買うのだって、30分は悩む。
(視聴できるわけじゃないのに)
そんな私が1時間かけて買ったCDはなんと9枚。
恐るべし、海外ショッピング。

 そろそろ、16:30になろうとしていた。
今まで見た中で、衣装を決めなくちゃならなかった。
でも、もう1回試着しないと心が決まりそうにない。
青いやつと、オレンジの花柄の2つで迷っていた。

 17:00。まずはオレンジの花柄を再度試着。
あー、お嫁さんみたいに可愛い!(自分で言うな)
でも、これ買ったら今年の発表会で着る衣装はない。。。
やっぱ、青だ。

 思いっきり後ろ髪を引かれながら、赤の水玉と青の衣装の店へ走った。
赤の水玉のお直しが出来あがっていて、チェックのためにもう一度試着。

 そして、青の衣装をもう一度着てみた。
やっぱ、悲しみを踊る今年の発表会用はこれしかない。
でもね…

 結局赤の水玉と青の衣装を買うことに決めて、
クレジット・カードで決裁を済ました。
普通、2着も衣装買うんだったら、髪飾りとか、お花とか、
ピアスだとかサービスでつけてもらうんだけど、
それをセレクトする時間はなかった。心があるところに向かっていたからだ。
「あのさー、オレンジの衣装、もう1回見に行きたいんだけど。」
N氏はいやな顔ひとつせず、「そんじゃ走るぞぉ!!」

 ふたりで1着ずつ衣装を抱えて、猛ダッシュ!!
1着1.5kgくらいある衣装を抱えて走るのは、結構辛い。
10mダッシュしたところで
「ぎょえぇぇぇっ!さっきの店でクレジット・カード返してもらってない!!」
Go back、go back!!

「ミ、タルヘタ、デ、クレジットぉ〜!(私のクレジットカードを!)」
「シ?ノ?」美人の店員さん、慌てて探す。
私も、もう1回財布の中を探す。。。ない。。。

「アイー、アイー(あった、あった)」と店員さん。
「きゃぁ、よかったぁ!」思わず日本語で叫ぶ。
「ロシエントォ!!(I’m sorry)」美人のセニョリータ、手を合わせて謝ってた。
大丈夫、大丈夫。私のとこに無事戻ってきたんだから。さて、もう1件ダッシュよ!

 まだ、フラメンコのレッスンを受けていないと言うのに、
足がすんごい筋肉痛だった。明日からのレッスン、大丈夫かいな???

 えーっとぉ、Centro(中心街)のニコラスって言う靴屋を右に曲がるんだったな。
よぉーっしゃぁ!!

 髪振り乱して、もう1回オレンジの衣装を試着した。
あー、時間がもう少しあったら。。。ショールだって、おまけしてもらうのにぃぃ!
あーん、靴も欲しかったのにぃ!!ふん!MADRIDで買うわ!
あーぁ、シエスタさえなければ、もっとゆっくりお買い物できたのになぁ!!

 結局3着も衣装を買ってしまった。。。
いいんだろうか、こんなことで。。。一度に3着も買って、
一体いつ着るのよ。。。と、もうひとりの私が小言を言っていた。

 「安かったよなぁ。日本での1着分の値段で3着買えたんだから、
スペインに来た甲斐があったなぁ。」とN氏。
そ〜お〜だよねぇ!!3着って言っても、1着分よねぇ!
この一言で、すっかり私の心は明るくなった。
なっはっは!着る機会がなかったら、花嫁衣装にすればいいさぁ!

 さぁーてと、駅に行こうか…
夕方6時とは言え、日差しはすんごい強い。
日本の昼2時くらいの日差しと言えばいいかなぁ。。。

 あ…れぇ?!サングラスがないっ!!

 えーっとぉ、どこだっけ? えっとぉ…

 ぎゃー、最初の店だ。あそこで試着する前に、
ジャケット脱いで、かばん置いて、その上にサングラスも放り投げて…
たぶん、レジの横に転がってる…

 「取りに行くぞ!」とN氏。
 「いいよー、安もんだから…でも。。。」
 「ガタガタ言わないで走れぇ〜〜〜!」
 「は、はいーーー!!」

 もう最後の力振り絞って走ったよぉ!
ほんっとぉに死にそうだった。ランチの時に飲んだビールが、
そのままアルコール分解せずに汗になってる感じがした。
はっきり言って、酒くさかった。

 「私のサングラスぅぅぅ?」と日本語で言いながら、
レジの横と下を探した。  ない。
セニョリータは何もなかったと首を横に振った。うそぉー!
絶対ここだと思ったのに。

 「ちょっと荷物を見てみろ!」
 (いやー、ないよー、だって入れた覚えない!もん???)
 「ぎゃー、あった、この袋の中!!」
 「ばっかやろぉ!走れー!!」

 大通りまで大荷物抱えて全速力、やっとTAXIに乗りこむ。ひぇ〜〜〜。

 SEVILLAの旅は、走りっぱなしでした。ふー。

 でもね、私のサングラス・ドジ事件のおかげで、
その店で買い物しようとしていた日本人のおばさんは救われたんだよ。
クレジット・カードで何かを買おうとしてたんだけど、
旦那のカードだったから、使えなかったみたいでね。
んで、ホテルにお金取りに行ってくるから待って欲しいと、
店員さんに言ってくれってN氏に助けを求めたらしい。

 スペイン語も英語もできないのに、ひとりで買い物しようって根性は買うけど、
根性だけじゃー、海外旅行はどうにもならんよ、おばちゃん。

 そんで、笑っちゃうのが買い物の金額。
2700ペセタだったんだけど、日本円にして1700円くらいよ。
そんくらいの現金、持っとけー!って感じよね?

 そりゃ、スペインは危ない国だけど、
少しくらい現金持ってなくちゃ、いざ襲われたときだって、
現金ないなら命を!ってなっちゃうかもしれないじゃんねー?
恐るべし、おばちゃま!!

 なんとか、帰りのAVE(新幹線)にも間に合い、
ほっと一息ビールで乾杯( ^_^)/□☆□\(^_^ )
いやー、たくさん走らせてすみません!
N氏、座席に沈み込むように座ってました。ごめんなさいねぇ。
でも、きっとこうなると思ってたけど(^^;)

 21:30、家にたどり着いて夕食に出かけた。もちろん、空はまだ明るい。
これからの予定は、うんまい物たらふく食べて、タブラオを見に言って、
その後はセビジャーナスが踊れる店に行くって言う、
フラメンコ狂の私としてはメッチャ嬉しい夜遊びコース。
昼間の筋肉痛だって、へっちゃらさ〜♪

 N氏の行き付けのレストランで、WINE飲んで、
ムーチョうまい海老にかぶりついて、
サラダ食べて、海の幸いっぱいのパエジャ食べてp(^-^)q

 そして、N氏の携帯電話が鳴った。22:30だった。
私は手掴みでひたすら海老を食べていた。



スペイン日記その2「SEVILLA観光」
Date: 2001-11-02 (Fri)

2001年6月10日(日) MADRIDくもり

 9:00ちょっと前、起床。
36時間と言う長い1日の翌朝にしては、すっきり目覚める事ができた。
好きなこととなると、早起きも苦にならないから不思議だ。

 シャワーを浴びて、駅へ向かった。
昨夜、MADRIDに着いたばかりだが、N氏の休日が土・日なので、
この2日間でSEVILLA(セビージャ)を案内してもらうことにしていたからだ。

 MADRIDの駅は非常にでかく、改装されたばかりできれいだった。
昔ホームだったところはまるで植物園のように、緑の木々が生い茂っていた。
その雰囲気は、百道のシーホーク・ホテル(福岡ドームの隣にある)の
1階の植物園に似ていた。

 駅構内のCAFEで、CAFE CON LECHE(カフェオレ)と
サンドウィッチを食べた。Tortilla(オムレツ)をはさんだやつと
生ハム&チーズのやつを。
立ち食いってのが、スペインらしくっていい。
でも、これが日本だと、立ち食いそばって感じだから、
絶対できない。したくない。

 生ハムをうまいっうまいっって食べてたら、N氏が
「これでうまいなんて可哀想に。本当にうまい生ハムを
SEVILLAで食べさせてやるからな」
と言ってくれた。あ〜、貧乏旅行のはずがN氏のおかげで、
超ゴージャスなものになりそうな予感♪

 11:00発のAVEというスペイン版新幹線に乗って、SEVILLAへ…
AVEから見える景色は最高だった。
本当に、心から「美しい大地:LA TIERRA BONITA」と
賞賛したくなるような美しさだった。
「美しい」という言葉を使うことに、
何の照れも生じないほどの美しさだった。
赤い土、黄色のひまわり畑、緑のオリーブの木、ぶどうの木、
そして体に染み入るような青い空と夏の雲…
視界に入りきれないほどの大きさだ。

 特に気持ちが良かったのが、オリーブの緑色。
ちょっと白っぽい緑が、とても目に優しく感じられた。

 13:30にAVEはSEVILLAへ到着。
旧ユダヤ人街サンタ・クルス地区へ向かう。
美しい中庭とせまい路地、これがアンダルシアかぁ。。。
初めて訪れたのに、妙に懐かしい。切ない。

 ヒラルダの塔を仰ぎながら、
世界で3番目に大きい教会カテドラルに入った。
カテドラルに続くオレンジの中庭は、オレンジの木々が青々としていた。
オレンジの葉の間から見えるヒラルダの塔は、それはそれは美しかった。
あ〜、なんでこのコラム写真が掲載できないのよぉって感じだ。
(自分のボキャブラリ不足を反省せいっ!)

 んで、実はN氏は自称考古学者、
されどツアー・コンダクターのバイトもしてる方で、
(もちろん本当の肩書きはこの限りではないのだけど)
土日が休みだったにもかかわらず、
宮崎からの団体旅行客を連れた
初心者ツアー・コンダクターの泣き落としに負けて、
急遽この日ガイドをする羽目になり、
私はどっちみち観光もしたかったので、
宮崎からの団体客と一緒にSEVILLA観光を楽しんだ。

 と言いながらも、カテドラルの中の美術品に見とれて、
みんなとはぐれる始末。。。
いやー、美術館や博物館は、団体で訪れるべきじゃないね、やはり。
約1世紀の年月をかけて建造された教会だけに、
ステンドグラスは半端な美しさではなかった。

 大好きなムリーリョの「守護天使」の前では、立ちすくんでしまった。
宗教はわからないけれど、ムリーリョの描く天使は、
無邪気な子供のようで心安らぐ。
 
 そして主礼拝堂の巨大な祭壇に施された木彫りは、
芸術がわからない私ですらをもため息をつくほど、細かで美しかった。

 スペインってすごい。

 もっとじっくり見ていたいよぉ〜っと、
後ろ髪を引かれる想いでカテドラルを後にし、スペイン広場へと向かった。
SEVILLAの春祭りは、毎年ここで行なわれる。
思い思いの衣装を身にまとい、セビジャーナスと言う踊りを踊るらしいが、
ここであるのかぁ…と思うと、なんだか見たこともないくせに、
目に浮かぶようだった。

 スペイン広場の周りを取り囲むように半円形の古い建物があったが、
1929年にここで催されたイベロ・アメリカ博覧会の建造物だと言う。
スペイン各地の地図や歴史がタイルに描かれていて、可愛かった。
建物壁面のタイルは、西日が当たると光ってとても美しかった。

 宮崎の観光客のおじさま、おばさまは、N氏にだまされて、
私のことを未来のフラメンコ・ダンサーと信じていた。
踊れ、踊れとはやしたてられ、調子に乗ってセビジャーナスを踊ったら、
拍手喝さいだった。スペインの西日を受けながら踊ったセビジャーナスは、
私自身いい思い出になりそうだ。

 宮崎の観光客と別れ、私達はホテルに荷物を置きに行った。
30分ほど休憩をして、ホテルを出た。向かう先は、マエストランサ闘牛場。
今夜のメインのひとつ、闘牛観戦だ!

 N氏は日陰の席を購入してくれた。
スペインの19:00は、まだ陽が高い。
サングラス無しでは、眩し過ぎるくらいだ。気温もまだ30度近くあるので、
とても日向でなんか観戦できない。よって日陰の席のほうが、値段が高い。
ムーチャス グラシアス セニョール!だ。

 楽隊がマーチっぽい曲を演奏し始めると、闘牛士たちが入場してきた。
闘いは「槍(やり)の場」「銛(もり)の場」「ムレタの場」
(ムレタっていうのは闘牛士が振りまわす赤いマントみたいなもののこと)
の3場面に分かれている。

 「槍の場」に入る前に、闘牛士の助手たちが“Go ahead!”
と言いながら(なんで英語なんだろ?)、牛を挑発する。
牛が勢いづいてきたところで、
槍を持った人(ピカドール)が馬に乗って現われた。

 そして馬に乗ったまま、上から牛の肩の筋肉を槍で突く。
牛の肩から、ひとすじの血が流れ、
時間が経つと、胴の半分が血だらけとなった。
ぼたっ、ぼたっ、と深紅の血が地面にしたたり落ちていた。

 私は闘牛って、牛と闘牛士による1対1の決闘と思っていたので、
こんな風に、寄ってたかって牛を殺すことになんか意味があるんだろうか?
と思ってしまった。

 ところが、牛の肩の筋肉を切らないと、闘牛士は牛の頭で突つかれたら、
それこそイチコロなんだとN氏が説明してくれた。
ピカドールの槍の一突きで牛を疲労させ、頭を下げさせないと、
闘牛のショーは成り立たない…ということらしい。

 次に、銛(もり)を持ったバンデリリェロが登場。
3人のバンデリリェロが、2本ずつ飾りのついた銛を牛の背中に刺し、
動きの鈍った牛を奮い立たせる。

 私が見た2つ目のショーのとき、
ひとりのバンデリリェロが牛に突き飛ばされた!
すごい勢いだった。
倒れたバンデリリェロを、牛はすごい勢いで、角でど突いていた。
助っ人が数人入りこんで、泥だらけになったバンデリリェロを、
場外に引きずり出した。
牛だって真剣なんだ。もちろん、人間もそうだけど。

 ショーのクライマックス、「ムレタの場」では、
真っ赤なムレタを手にした闘牛士が、やっと現われた。
へっぴり腰の闘牛士もいれば、背筋のぴんっと伸びた闘牛士もいる。

 牛と向かい合い、
 牛とギリギリのところに立ち、
 腰をぐぃっと入れて、
 背中の筋肉を十分に使って、
 牛の突進をムレタでかわす。

 カッコイイ!

 観客から“ビエ〜〜〜ン!(Goodってこと)”と声がかかる。

 右にかわす、“ビエ〜〜〜ン!”
    左にかわす、“ビエ〜〜〜ン!”
       背中越しにかわす、“ビエ〜〜〜ン!”

 場内が、完全にひとつとなっていた。

 そして最後、闘牛士の右手の剣が牛の両肩の間に深深と刺し込まれると、
「真実の瞬間(牛の死)」が完成する。
この「真実の瞬間」は一瞬でなければならない。

 刺しどころが中途半端だと、牛はもがき苦しむ。
その姿は、あまりにむごたらしい。
それこそ、単なる残酷なショーとなってしまう。
死を賭けた芸術、神への儀式になるか否かは、
闘牛士の腕前がためされるところである、
この「真実の瞬間」にかかっているのだと思った。

 闘牛の意味がわかったところで、もうそれ以上ショーを見る気にはなれなかった。
おそらく、このあと腕のいい闘牛士が登場するのだろう。
しかし、私達は全部のショーを見ずに退散した。

 さてさて、今夜のメインのもうひとつはやっぱりフラメンコ。
SEVILLAで行きたいタブラオがあったんだけど、
N氏のツア・コンのバイトがもう少し残っていて、
それに付き合うことに。

 そう、昼間の宮崎からの団体旅行客を、
タブラオにご案内しなくちゃだったのだ。
んで、行く先は、「EL PATIO FLAMENCO」。

 店の前にたどり着くと、宮崎のみなさんは既に私達を待っていた。
店の前の大通りにはでっかい観光バスが数台とまっていて、
なんだかいや〜な予感がした。

 総勢12人のバイラオール(踊り手)たちで圧倒されたが、
そこは私がイメージしていた薄暗い、土の匂いがするようなタブラオではなく、
かなり観光化されたフラメンコ・ライブ・ハウスだった。
いやな予感は的中したわけだ。

 でも、日本では12人の踊り手が代わる代わる踊る!
なんていう豪華なフラメンコはそうそう見られないから、
贅沢な文句だよね。反省。。。

 どのバイラオールも、ブラソ(腕)の使い方が美しくて、
「あーっ、早く私もレッスンしてぇ〜〜〜!!」って思った。

 さて、明日はSHOPPING IN SEVILLA!!
衣装と、フラメンコの小物と、フラメンコ・シューズを買うぞぉぉぉっ!!



- Sun Board -